母のガンで気付かされたこと

私の母は、膵臓癌だった。
2015年6月、膵臓癌だと告知をされた。
なぜ、病気が発覚したかというと、少し前から高血圧になり、4月ごろから血糖値が高くなり、糖尿病予備軍とのことで、かかりつけの医師から薬をもらい服用していた。しかし、一ヶ月後薬を飲んでも血糖値が下がらなかったため、不審に思った医師が、膵臓癌を疑い、総合病院で詳しい検査をしてもらうため、紹介状を書いてもらった。そのおかげで、癌を知ることができたのだ。
通常、一ヶ月血糖値が下がらなくても、半年ぐらいは様子を見るのが普通らしい。もし、半年後に癌だと発覚していたら、もう手遅れになり手術もできなかったそうだ。
だが、その医師のおかげで、膵臓癌が見つかり、初見の結果、ステージ2〜3で幸い手術ができるとのことだった。とりあえず、安堵した。しかし、もうその時から、本人は完治しない病だと言うことを理解していたのかもしれない。私自身は、まだまだ未熟で、膵臓癌という病がどれほどまで恐ろしいものか、理解していなかった。
その年の8月、手術が行われた。
中を開いたら、思ったより進行していて、ステージ3と診断され、リンパ節にも転移している疑いがあり、一部を病理に回すことになった。その結果、10分の3が転移していることが分かった。
少しでも転移していることが分かったため、抗がん剤の治療が開始された。膵臓癌に使える抗がん剤は、限りがあるらしく、母が使えるのは3種類とのことだった。まず、そのうちの効き目が強そうなものを使ってみることに。幸い、吐き気、怠さは少しあるものの、通常の生活ができていた。
そんな中、今まで一度も母の涙を見たことがなかったが、初めて見ることとなる出来事が起こった。それは、髪の毛が抜けていくということ。髪の毛が抜けるだろうということは、母自身も感じていただろうとは思ったが、これほどまでにショックだったとは思わなかったのだろう。その日、いつも通りお風呂に入った母がなかなか出てこなかった。どうしたのか心配になり、声をかけたら、髪を洗っていたら、絡まってしまい、解けなくなった、と泣きながら言っていた。泣いていたことにビックリして、姉と一緒に母の髪を見た。すると、一気に抜ける量が多すぎるせいか、大量に絡まり、正直解くことが困難なほどだった。母は、もういいから早く髪の毛切って!と泣きながら言っていた。それを見た父は、ハサミを持ってきて本当に切ろうとしていた。だが、姉と私は、母は本当は切ってほしくないのだろうと、気持ちを悟り、何時間もかけながら必死に解いた。正直、抜けていく髪の毛のが多かったが、とにかく少しでも母が悲しい気持ちにならないように、必死に解いた。この経験は、私自身本当に驚き、それと同時に、母も今までは平気な顔していたが、今回のことで、やはり辛いのだと初めて知った。
また、今のうちに、色々な場所に行った。私自身もこの頃から、ネット等で膵臓癌の情報を得ており、完治するのは難しい病気だということは薄々気付いていた。しかし、まだ諦めたくはなかった。
抗がん剤を一生懸命頑張っている母だったが、検査をする度、腫瘍マーカーの値がどんどん上がっていった。嫌な空気が頭をよぎる。もしかして、転移なのか。CTでチェックするも、腫瘍は見つからず。そのうちにも、腫瘍マーカーはどんどん上がっていった。そんな中、医師がCTより鮮明に分かる、PET検査を進めてきた。とりあえず、お願いすることに。その結果も、特に見つからず。
だが、医師は腫瘍マーカーがかなり上がっていってるので、やはり目には見えない転移があるのだと言った。医師からは転移が見つかった時点で、もう手術は出来ないと言われた。
そう言われたが諦めたくはなかった。家族会議でセカンドオピニオンをするか話し合った。しかし、母本人がそれを拒んだ。今の先生は親身になって接してくれるし、本当のことを話してくれる。この先生を信頼できる、と言った。
もう、この先生にお願いするということは、同時に諦めることを意味している。
そんな時、麻央ちゃんのニュースが流れる。乳がんで亡くなったのだ。よく中身を聞くと先進医療をして、亡くなったというのだ。もう私たちが出来る医療が麻央ちゃんと同じ先進医療だったのだ。諦めざるをえない気持ちになった。
そんな中でも徐々に病は、蝕んでいく。
私は、母が少しでも元気なうちに、親孝行をしたいと思うようになった。今までは、母に甘えきりで、頼り過ぎていたため、親孝行はできていなかったように思っていた。そのため、まだ結婚していなかった私は、早く結婚して、花嫁姿を見せてあげたいと思うようになった。それに、母は子供が大好きだったことを知っていたので、早く孫を見せてあげたかった。それが親孝行なんじゃないかと思っていた。
運良く、その当時付き合っていた彼と、見事にゴールインをし、結婚することになった。結婚式で母に花嫁姿を見せることができて本当に嬉しかった。母も、心から喜んでいただろう。
その後、子作りに励んだが、なかなか授からず、1年が経とうとしていた。そんな中、母の病気が肺にまで転移し、とうとう余命宣告を受けることになる。その宣告を受ける少し前に、子供ができたことが分かり、心から母も喜んでくれた。
だが、余命宣告通りでいけば、産まれてくる子供を見せてあげることができない。間に合わない。何度も何度も、少しでも長生きしてほしい、と心の中で願った。
しかし、どんどん病魔は襲いかかり、日に日に黄疸ができ始め、時折認知症のような症状が出て、記憶を無くすこともあった。一度、母との会話で、「あなたは誰ですか?私にはそんな子供はいません。」と言われた時は、とてもショックだった。病気で言われているということは、理解していても、面と向かって言われるとショックも大きかった。泣きそうになったが、母の前では絶対に泣かないと決めており、病室を出た瞬間、涙が止まらなかった。看護師さんが本当に親切にしてくださり、とても心が和らいだ。
その間、星野仙一さんの訃報を知ることとなる。そして、同じ膵臓癌で亡くなったことも。母の手帳には、そのことが殴り書きしてあった。その手帳は亡くなったあと、見つけることとなる。
そして、2018年3月7日、私は主人の誕生日だったため、2人で外食をしていた。その時に一本の電話が鳴った。父からだった。母の容態が悪い、とのことだった。急いで駆けつけた。まだ息をしていたが、呼吸も本当に苦しそうだった。先生からはもうそろそろだと言われた。みんなで病院に泊まることにした。最期は絶対にそばにいたいという思いが強かったからだ。翌日の晩、吐血をした。先生からは、まだ若いので心臓が頑張っている、とのことだった。
しかし、願いは叶わず、2018年3月9日、みんなに見送られてこの世を去った。
永年54歳。
母のサンキュー(3月9日)という意味なのだろうと私は思う。

この経験から、普通の日常生活をおくれることが一番の幸せなんだと、心からそう思った。
健康でいられる現状を日々大事に暮らしていきたい。

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