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『おいしいごはんが食べられますように』

高瀬隼子によるこの小説は、芥川賞を受賞した著名な作品である。
私も、祈るような題名と白と黄色で描かれたよくわからない表紙に惹かれ、手に取った。
『おいしいごはんが食べられますように』というのだから、もちろん色がテーマ心温まる物語なのだろうと、油断でだらりと弛んだ心持ちのまま読み始めてしまった。
そう、一見やさしそうな外装の悪魔に、まんまと騙されたのだ。


二谷は普通のサラリーマン、ごく”普通”の職場で働いている。
職場には昭和的なリーダーシップを悪気なく振りかざし、少なくともその場にいる3割ほどの社員の顔をこわばらせる「飯行くぞ」が口癖の支店長がいる。
支店長の声掛けを上手いこと交わすことのできる存在感の二谷と先輩の藤は、集団を成して食事に向かう社員たちの曲がった背中を見送りながらいつものように愚痴をこぼす。喉がかわいた藤は、冷蔵庫に向かいながら、美人で優しく”か弱い”同僚の芦川さんの飲み掛けのペットボトルを開けて飲む。

芦川さんは、か弱い人だ。正社員だけど、周りの暗黙の了解で彼女の心には負担になるような普通の仕事はやらなくていいことになっている。
「頭が痛くなってしまって、」
本当に顔色を悪くしながら、みんな抱えている頭痛を理由に、周りに大いに労られながら早上がりしていく。

押尾は、芦川さんの隣の席に座っている女性社員。いつも、彼女を労っているような表情をしながら。
「わたし芦川さんのこと苦手なんですよね」
恵まれたルックスと醸し出す「守られるべき」オーラで、普通に苦労している他の社会人と同じ給料で悠々と生きていける芦川さんが、嫌いで仕方なかった。
そんな本音を会社帰りにサシで飲みながら二谷に打ち明けるも、打ち明けるまでもなくバレバレだったようだ。
動作や会話の節々から感じる、二谷の闇。
食べなければいけないのが苦痛である、
就職のために選んだ経営学部への冷めた感情と選べなかった文学部への未練、
いつか、どこかからぐにゃりとひん曲げられてしまった彼の感情から目が離せなくなってくる。
とにかくその晩は、「芦川さんが嫌い」同士の2人で彼女に意地悪をしよう、と笑い合った。

「昨日はすみませんでした、帰ったらよくなったので作りました。よろしければみなさん召し上がってください。」

ある、彼女がいつものように早退した次の日、芦川さんは職場に手作りのお菓子を持ってきた。料理上手でパートのおばさんから評判の高い彼女のことだから、趣味にしては上手すぎるお菓子を振る舞い、案の定みんなに大喜びされた。
恩を返せたとでも思ったのかそれから彼女は毎日手作りのお菓子を持ってくるようになる。


二谷と芦川さん、二谷と押尾、押尾と芦川さん
三つの関係が「手作りお菓子」を通じてゆっくりと歪んでいくその様は、どうしようもなく居心地が悪く奇怪でリアルだ。
「無意識の暴力」が彼らを相互に蝕んでいくのを眺めながら、自分の背に向かって指されている指の数を、数えていくような感覚になった。


売り物のように綺麗にナッペされたケーキの味は、あくまで手作りだった。
本物のように見事に偽られた彼らの関係は、同時進行系でどんどん離れていく。

最高に不快で、人間関係の核心をついた傑作ホラーの世界へようこそ


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