納戸を発掘した話

”納戸”にどんなイメージがあるだろう? 私のイメージだと、作り付けの棚が壁一面についた小部屋である。ここに缶詰や保存食品が整然と並んでいるイメージ。
あくまでもイメージである。そんな納戸を見たことはない。ましてや、かつて我が家に存在した”納戸”はそんな納戸ではない。

北のお勝手

子どもの頃、”納戸”に行くのが苦手だった。その”納戸”のことを家族は「北のお勝手」と呼んでいた。その呼び名は謎だったが、深く考えもせずに受け入れていた。
家の北側にある、だだっぴろい板の間であった。天井も高い。薄い戸がついている。左右には棚があるが、真ん中のスペースは相当広く、作業用なのか机が置かれていた。裸電球が一つあるだけなので暗い。昼間も日が差し込まず、薄暗い。
棚や机の上には様々な食料が置かれていた。缶詰、お歳暮などにもらった食品(箱ごと積んである)、梅酒などの自家製の果実酒、漬物、ケースで買っているビールやジュース、日本酒や醤油など。
食料以外の物もある。普段使わない大きな蒸籠、ジューサー、かき氷製造機、漬物を作る時に使う巨大なたらい、分銅つきのハカリ、餅をのばす大きなまな板、のしぼう。
様々な保存食と漬物と、ほこりの匂いがする。悪臭というわけではないが、良い香りではない。
しかも、部屋の奥は隣のスペースとつながっている。そこには粗末な流しがあった。一応鏡がぶら下がっていた。ふだんは祖父が使っていた。祖父は書道が趣味で、この流しで筆や硯を洗う。身支度もする。流し周辺には、祖父のポマードの匂いと墨の匂いが混じっている。これも悪臭というわけではないが、あまり良い香りではない。こちらも薄暗い。
子どもにとってはおばけが出るんじゃないかという部屋だった。この部屋から必要なものを持ってくるように言われても、内心怖かった。

北のお勝手

数年後、「北のお勝手」をリフォームすることになった。部屋中に積まれた食材やら何やらを片付けた。部屋の全貌があきらかになってきた。

食材を置くための台だと思っていた机は、形状からして食卓であると推定できた。祖父専用の流しの手前には古い茶箪笥があった。中には昔使っていた食器が残っていた。ここは本当にお勝手、つまり台所だったのだ。

近所や親戚の家のことが頭をよぎる。古い農家の住宅は、北側の奥に台所があり、その横に居間があった。こたつとテレビのある家が多かった。我が家も昔はそういう構造だったのか。それにしても寒いスペースだけど。

大人たちが思い出話を始めた。戦後、早い段階で、この家の住人は台所につながるスペースの寒さに音を上げ、南側の暖かい部屋で食事をとり、くつろぐようになった。祖母は1人、「北のお勝手」で食事を作ったり後片付けをしたりしていたそうだ。それは寒そうだ。心理的にもつらいだろう。まだ瞬間湯沸かし器もない頃だから、後片付けをするのも水だけだ。

そんなわけで、「南側の暖かい部屋」をリフォームし、ここに台所と食卓をしつらえた。「北のお勝手」に比べれば相当狭い台所であり、食堂である。でも暖かく、家族の団らんに参加しながら食事の支度も後片付けもできた。
鍋を火にかけたまま、テレビを見ることもできる。
「北のお勝手」は忘れられ、よほど大きな仕事(餅つきとか、味噌を仕込む時とか、漬物を大量に作る時とか)の時以外は使われなくなり、かつての食堂は食材置き場になっていったのである。

更に発掘は進む

「北のお勝手」の片付け作業は更に進んだ。台代わりに使われていた古いタンスも見つかった。「見つかった」というか、「あれ、引き出しがついてる、台じゃなくてタンスだったのか」という感じだ。大人たちは最初から引き出しだと認識していたと思うが、子どもの私は気がついていなかった。引き出しをあけると、戦前、我が家に届いた手紙やハガキが出てきた。
 
板の間を剥がした。板の間の下からは、なんと囲炉裏の跡が見つかった。部屋の奥のサッシを開ける。目の前に古井戸がある。水道がなかった時代、このスペースは生きていた。ここは本当に家族団らんのスペースだったのだ。その頃ここに住んでいた人たちは、ここで何を話していたのだろう。

「北のお勝手」のことを思い出し、こうやって書いているうちに、ふっと気になりだしたことがある。幼かった頃、このスペースを使って祖母が大量の麹を作っていたことがあった。ビニールシートがびっしり貼ってあった。もわっとした空気、ぶら下がっていた温度計……。
あの部屋でどうやって麹を作ることができたのだろう? 聞いておけばよかった。


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