「どんな習い事をさせようか」 子どもが成長するにつれて、多くの親が悩むことだと思う。 私自身は子供の頃、音楽教室に通っていた。練習は嫌だったが、演奏自体は楽しかった。グループレッスンで知り合った友達と、待ち時間に遊ぶのも楽しかった。 というわけで、幼い息子に、音楽教室のレッスンを体験させた。息子の反応は薄かった。拒絶したわけではなかったが、特に面白そうでもなかった。全然決め手にならない。 「男の子の場合、はじめから喜んで通う子ばかりではないですよ。試しに入会してみて
4月は味噌を仕込む季節だった。「お味噌仕入れ」と呼ばれていた。 子供の頃の私は「オミソシイレ」が何のことか、よく分かっていなかった。 匂い 4月になると、奥座敷から麹の匂いがする。 新聞紙の上に大量の麹が広げてあった。ぽろぽろにほぐしてある。 庭には大きな穴が掘られ、「ぐりとぐら」に出てきそうな大きな鍋が据えられた。朝になると、その鍋いっぱいに大豆が煮られ、湯気を立てていた。 豆の匂いが漂う。柔らかく煮えた豆は美味しい。 味噌蔵にはよく洗った味噌用の樽が据えられ、その横に
春は苦い。 苦い思い出もたくさんあるが、ここでは苦い食材の話をしたい。 ふき味噌は大人の味 実家の裏庭というか、裏畑(そんな言い方があれば、だが)にはフキが生えている。きっと昔、誰かが植えたのだろう。春が近くなってくるとフキノトウが出てくる。まだつぼみのうちに採ってくる。 子供の頃、フキノトウの食べ方はふき味噌にするだけだった。祖母は何でもたくさん作る主義である。ふき味噌もたくさん作る。朝も晩も食卓にあったが苦かった。美味しいとは思えなかった。美味しいと思うようになったの
1月20日は甘酒の日 1月20日は甘酒の日なんだそうである。私も作った。シャトルシェフを使う。うまくいったと思う。いい感じの甘さだ。 しかし、少し残念な気もする。もっとくどい、しつこい甘さの甘酒を作ってみたい。懐かしい味を再現したい。 祖母の甘酒 祖母は4月になると甘酒を大量に作った。甘酒が好きとかそういうことではない。4月には1年分の味噌を仕込む。味噌を仕込む時に麹だけでなく、甘酒も入れる。大きなバケツいっぱい、なみなみと用意した。 祖母が甘酒をどうやって作っていたの
”納戸”にどんなイメージがあるだろう? 私のイメージだと、作り付けの棚が壁一面についた小部屋である。ここに缶詰や保存食品が整然と並んでいるイメージ。 あくまでもイメージである。そんな納戸を見たことはない。ましてや、かつて我が家に存在した”納戸”はそんな納戸ではない。 北のお勝手 子どもの頃、”納戸”に行くのが苦手だった。その”納戸”のことを家族は「北のお勝手」と呼んでいた。その呼び名は謎だったが、深く考えもせずに受け入れていた。 家の北側にある、だだっぴろい板の間であった
食べきれないおせち料理……祖母のおせち 祖母はおせちを大量に作った。それはもう何日食べるのかという量を作った。重箱に詰めたりはしない。食事のたびに小皿に分けて盛られた。作ったおせちは鍋ごと保存されていた。 冷蔵庫に入るような量ではない。”納戸”(と便宜上呼んでおく)に鍋ごと置いておくのだ。今よりも冬は寒かった。しかも我が家は古い家だった。「冷蔵庫には凍っては困るものを入れておく」というルールがあったくらいだ。”納戸”は鍋だらけになった。 祖母は商家の生まれである。店で働
アポなしが最良? 我が家というか、私の親戚の一部には謎の思考がある。「アポなし訪問が一番良い」というものだ。 「誰かの家を訪問する際に、いちいち前もって連絡するなんて水くさい。第一、前もって連絡したら、掃除をしたり茶菓子を用意したり、大変ではないか。いきなり訪問した方が、お互いに気をつかわずにすんでよいのだ」というのである。 本当ですか? 本当に突然誰かが訪問してきて、気をつかわずにいられますか? そんなわけがないでしょう。 突然「これから行くけど」と連絡が来る
子どもの頃、家族で県外に行ったことはほとんどない。なのに、こんなに豊かな経験があるのはなぜだろう。 祖母と東京に行く……2歳 初めて東京に行ったのは2歳の時だ。祖母が連れて行ってくれた。と言っても私はほとんど覚えていない。後から聞いた話である。 その日、家族(祖父と両親)が出勤すると、祖母はタクシーを呼び、私を連れて駅に行った。30分くらいかかる。そこから特急で3時間で上野駅。動物園でパンダを見せて、お猿の電車に乗せる。また特急とタクシーを乗り継いで帰宅する。何事も
病院は闘病するところであって、療養するところではない。だから、寝具や食事について不平を言うことはよくない。ホテルでのんびり過ごしているのではないのだから。 しかし数十年前、祖父が事故に遭って入院したときの食事は、それにしても変だった。祖父は重傷で、頭蓋骨は割れ、肋骨は折れて肺にささり、足も折れていた。なのに、食事は「ラーメン」や「パン」だったのである。 「胃はなんともないから、ラーメンでいいでしょ、だって。食べれるわけがないよ」と祖母は怒った。不思議な祖父の病院食は祖母の
大学生になって実家を出た。家電や調理器具は現地調達のつもりだったが、1つ持っていったものがある。納戸の棚の奥で、箱に入ったまま眠っていたシャトルシェフだ。どこかからもらったものの、祖母や母にはいまいちピンとこないものだったらしい。 寮生活の大学生にとって、シャトルシェフはすばらしい道具だった。何しろ、共用の台所は4〜5人に1つガスコンロがあるだけだったのだ。夕飯時になると、それぞれがガスコンロの前に立ち、手早く調理することになる。お互い、長く使うのは気が引けた。 多く
畑に青じそがわさわさと揺れている。もう穂がついて、実がついている。 青じそが好きだ。きゅうりに巻くのも美味しいし、そうめんの薬味にも欠かせない。父の畑にまで行けばあるが遠い。ちょっと摘んでくるには面倒だ。そこである年、苗を買ってきて植えた。 父は嫌そうな顔をした。「こんなもん、なんでわざわざ買ってくるんだ。その辺にあるのを植えればいいのに。」意味が分からなかった。 次の年の春、畑の隅にはいろいろな植物の芽が出てきた。昨年の畑で成長したありとあらゆる植物が積み重ね
この辺りでなすといえば2種類ある。長なすと丸なすだ。 長なすは全国共通の長なすだが、丸なすはこの地域特有のなすでまん丸い。長なすに比べると身がしっかりしている。 丸なすの食べ方の定番は「ふかしなす」。蒸したものを冷やして、辛子じょうゆで食べた。今の私はしょうゆ(ラー油入り)がお気に入りである。 もう1つが本題の「おやき」だ。おやきの具はなすに限る。そう主張する人はけっこういるらしい。 私は違う。なすの入っているおやきなら何でもいいというものではない。私の母方の
子供の頃、よく客が来た。近所の人たちは玄関先で。親戚などは居間で。仕事関係の人などは客間へ。通されるところはそれぞれだったけれど、お茶とお茶請けが用意されるのは同じだった。 お茶請けは小さな皿に盛り、どんどん出した。漬物や煮豆、ちょっとしたお惣菜、甘く煮た果物などだ。 私も家族に連れられ、近所や親戚の家を訪ねた。連絡なしである。突然の来客なのに歓迎してもらった。次々にお茶請けが出され、食べきれなかった。 祖母はお茶請けをいくつも用意していた。連絡なしの客でも対応できた
昭和のきゅうり 幼い頃、初採りのきゅうりは仏壇に備えられた後、味噌をつけて食べた。夏の始まりである。うやうやしく食べたきゅうりは、じきに大量に収穫できるようになる。するときゅうりは漬物になった。我が家はぬか漬けではなく、味噌漬けにしていた。2〜3本を夜のうちに漬けて朝食べる。朝漬けたきゅうりを夜食べる。あっさりしていて美味しい。台所は祖母の仕事場であったが、これは母が担当していた。 塩もみもよく作った。しゃかしゃかとスライサーで薄切りにし、塩で軽くもんで冷蔵庫で冷やす。夕
先日、「きゅうり戦争」という言葉を聞いた。田舎あるあるの話である。どこの家も自家農園できゅうりが取れすぎてしまうこの時期、職場にきゅうりを持ってくる人が増えるのだ。「きゅうり取れすぎたから食べてください」「いやいや、うちにもあります」ときゅうり爆弾が飛び交う日々。 それでも毎年きゅうりの苗を植え、どんな食べ方をしようかとわくわくする。最盛期にはとれすぎるきゅうりをどうやって消費するのか悩む。 子供の頃、大人は取れすぎたきゅうりをどうしていたのだろう。きゅうりだけではない