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ローマvsパルティア―コルブロ将軍の戦争―


はじめに

 これまで3回に渡って、古代ローマの武器や戦術、そして具体的な戦争をカエサルの『ガリア戦記』を題材に紹介してきました。4回目となる今回は、ローマ帝国における戦争として、東方のアルシャク朝パルティアとの戦争を紹介したいと思います。その中でも、暴君として名高いネロ帝の時代の、コルブロ将軍による戦争について概観していきます。

 ローマはヨーロッパだけでなく、北アフリカや地中海東岸などを征服し、空前の大帝国を築いていきますが、東方のパルティアは未知の敵でした。両者は幾度となく小競り合いや戦争を行いますが、結局どちらがどちらを征するということはありませんでした。

 それには様々な要因が考えられますが、純軍事的に、両者の戦力が常に相手を圧倒する関係になかったことが挙げられるでしょう。実際、ローマがパルティア軍を壊滅させることも、パルティア軍がローマ軍を大敗させることもあり、ローマ軍は勝ち続けることはできませんでした。

 そんなローマ軍のパルティアとの戦争を概観することで、他地域では見られない軍の特徴を見ることができるかもしれません。今回は特に、戦いの経過が窺いやすく、ローマ側が比較的優勢だった、コルブロ将軍の戦争について見ていきたいと思います。

ローマとパルティアの関係―コルブロ前史―

共和政期

 コルブロ将軍の戦争について触れる前に、ローマとアルシャク朝パルティアの関係について概観しておきましょう。

 アルシャク朝パルティアは、前3世紀ごろに遊牧民族出身のアルシャク1世によってイラン地域に建てられた王朝です。当時イランは、セレウコス朝の支配が弱まっていく時期にあり、彼はそんな時代に台頭して王朝を築いたのです。

 両者の対立は、前2世紀後半以降、崩壊しつつあるセレウコス朝の領土への権利を主張する形で始まりました。初期の接触としては、スッラ、ルクッルス、ポンペイウスらによって、パルティアとの合意が結ばれ、おおむねそれ以降はユーフラテス川を境に西方をローマの勢力が握り、アルメニアに対する影響力を争う、という形の対立図式が出来上がります。

Google Mapより筆者作成 緑がローマ属州、黄色がパルティア及びその属国

 パルティアは基本的に封建制の社会であり、軍隊は7つの大貴族家系が分有する形になっており、しばしば反乱も起こりました(ゴールズワージー[2019] p. 360)。そのため、ローマへ積極的に進行してくる深刻な脅威となることもありませんでした。

 パルティアの軍は基本的に騎兵から成っており、弓騎兵が敵を弱らせ、その後に長槍を持った重装騎兵(カタフラクトゥス)がと突撃するという戦術が強力でした。

 状況が変わったのは、前54年から行われたクラッススの遠征からです。彼がパルティア軍に大敗ののち敗死し、軍団旗を奪われたカルラエの戦いは、ローマに多大な衝撃を与えることとなりました。アルメニアが一時はパルティアに完全に従属するなどの政治的変化も起こし、パルティアのローマへの強硬姿勢を決定づけさせるなど、両者の平和的関係の構築の機会は失われたのでした(シェルドン[2013] pp. 58-60)。

 その後、パルティア側からの侵攻があったものの、ローマはこれを撃退。しばらくはローマは内乱によって攻勢に転じることが出来なかったものの、前36年には第二回三頭政治の一頭であるアントニウスによる遠征が行われました。クラッススの敗戦を教訓に装備を整え、進軍路を設定した遠征でしたが、結局は敵に補給路を断たれ、遠征は失敗に終わりました。

 以上のような衝突の発生については、ローマ軍指揮官が現場で行動し、それを後からローマの元老院が裁定して外交政策が形成される流れがあるという指摘があります(シェルドン[2013] p. 42)。つまり、一貫した政策の無いまま、時々の指揮官の判断で戦争が引き起こされていたということです。

帝政期

 そんな中、戦争によらず、外交で問題を解決しようとしたのが、初代ローマ皇帝のアウグストゥスでした。ローマ側の推す王をアルメニアに立て、軍旗や捕虜を取り戻したのは、まさに外交的勝利でした。

 しかし、こうした対応は国内では必ずしも支持されません。詩人ホラティウスは、その詩の中でパルティアに対する戦争を主張しました(シェルドン[2013] p. 95)。それほど、これまでのローマ軍のパルティアに対する敗北は衝撃的だったのです。

 また、ホラティウスはパルティアの弓騎兵に対抗するために、長槍で武装した騎兵を育成する必要があるとも主張しています(シェルドン[2013] p. 96)。パルティアとの戦争は、歩兵から成るローマの軍団兵が無敵であるという認識を破壊するには十分だったと言えるでしょう。

 以上のように、これから紹介するコルブロの遠征以前のローマとパルティアとの関係は、ローマ優勢で小康状態にありました。次節では、再びの大規模な戦争に到る過程について見ていきたいと思います。

コルブロと戦争前の交渉

コルブロという男

 戦争に到る過程の前に、まずコルブロという人物について紹介します。

 グナエウス・ドミティウス・コルブロは、前半生については謎が多い人物ですが、裕福な名門家系の出身だったといいます。47年にはクラウディウス帝によって下ゲルマニアの総督に任命され、ゲルマン人との戦いで成果を上げました(ゴールズワージー[2019] pp. 356-359)。その後、55年にネロ帝からカッパドキア、ガラティアの属州統治権、東方軍の命令権を与えられ、パルティア方面に派遣されました。

 コルブロの活躍は、1世紀中頃から2世紀始めの歴史家、タキトゥスの『年代記』に詳しいです。以下の文章は、基本的にこの『年代記』の記述を参考に書いていきます。

交渉をするが・・・

 さて、54年にパルティアのウォロガセスという王が、弟のティリダテスを、ローマ側に諮らずにアルメニアの王位につけました。そうしたパルティア側の強硬策に対抗するために派遣されたのがコルブロです。
 
 シリア総督クァドラトゥス麾下の二個軍団(第三軍団ガリカ、第六軍団フェラタ)、同盟軍、及びカッパドキアに冬営していた歩兵、騎兵がコルブロのもとに移管されました(シェルドン[2013] p. 116)。

 コルブロとクァドラトゥスは、キリキアにて会同し、パルティアのウォロガセス王に使節を送りました。

Google Mapより筆者作成

 ローマ側も事を荒立てることを望まず、この使節はアルメニアをローマの手に戻すまでの必要はない(>アルメニア王位はパルティア側が決めた人物で良い)ということをウォロガセスに伝えました(シェルドン[2013] p. 116)。

 一方でパルティア側も、国内での反乱に対応するために譲歩し、アルメニアから軍を引き、人質を送りました。

 つまりローマ側は、アルメニア王にパルティア王の弟のティリダテスが就くことは認める代わりに、軍を引かせ人質を手に入れ、これ以上の争いが起きないように収めようとしたのでした。

 とはいえ、ローマがアルメニア王の即位を認めるためには、ティリダテスがローマに赴き、形式的にはローマ皇帝ネロから王位を授かる必要があります。

 ところが、ティリダテスは、兄ウォロガセスの支援を得て、ローマに赴くことを拒否したため、再び緊張が高まりました( ゴールズワージー[2019] p. 365-368)。

 ひとまず交渉によって事を治めようとしたコルブロですが、実はこの間にも兵士の訓練などを続けていました。次節は、この軍団整備について見ていきたいと思います。

コルブロの軍団整備

 コルブロが着任した際に預かった軍団は練度が低く、その状況は悲惨なものだったようです。タキトゥス『年代記』の記述を引用してみましょう。


シュリアから転送された軍団兵は、長い平和のため怠惰となり、陣営の課す義務にひどい嫌悪を示していた。この軍隊の中に、歩哨や夜警についたことがなく、また堡塁や壕を見て、まるで始めての風物のごとく驚き怪しむ古兵がいたという話は本当である。彼らはめいめい甲冑も兜も持たず、そのくせみなりは飾り立て、たんまり金を蓄え、町のまん中で軍隊生活を送っていたのだ。

タキトゥス『年代記』第13巻35節(国原吉之助訳,岩波書店)


 コルブロはこの状況を打開するため、老兵や戦傷者を除隊し、属州のガラティアとカッパドキアから徴兵して補いました。また、アルメニアの高地での戦争に備えるため、兵を山に登らせて訓練しました。その際に腕が凍ってちぎれ落ちた兵もいたようですが、そんな中でもコルブロは兵と一緒に過ごし、兵達に範を示しました。

 さらに、規律違反の兵に対しては厳しく処罰します。他の軍では1、2回目の違反では処罰されなかった所を、最初から厳罰をもって当たりました。敵に降参した部隊の指揮官が、兵に十分な武装をさせていなかったことが分かると、彼を全裸で天幕の前に立たせる(フロンティヌス『軍略論』第4巻2章8節)など、精神的な罰則も活用しました。

 以上のような軍団整備は、コルブロがゲルマニアにいた頃にも行っていたものでもあり、やはり平時には軍隊がすぐに劣化することと、それを訓練することの大切さが窺えます。

次はいよいよ、戦争の経過について見ていきましょう。

コルブロの遠征①

アルメニア領内へ

 状況はより緊迫してきました。パルティア王ウォロガセスがアルメニアはパルティアのものであると宣言し、その弟、アルメニア王ティリダテスはローマ寄りだと疑われる人々を処刑するようになります。

 コルブロの方も軍備を増強。第十軍団フレテンシスが彼の麾下になり、シリアには新たにモエシア(現在のブルガリア、ルーマニアあたり)から第四軍団スキュティカが補充されました(シェルドン[2013] p. 117)。

 ティリダテスは国内の親ローマ勢力を制圧しに遠征を開始。58年春についにコルブロもアルメニアに対する遠征を開始しました(シェルドン[2013] p. 118)。パルティアのウォロガセスも軍を送りましたが、パルティア国内ではまた反乱が起こっていたため、自身が援軍に赴くことは出来ませんでした。

 コルブロはユーフラテス川沿いのメリテネという都市からアルメニア領に侵入していきます。

 ローマ軍は歩兵中心の大規模な軍であり、会戦を望んでいましたが、ティリダテスは遊撃戦を仕掛けました。こうなると、コルブロも軍を分けて対応せざるを得ません。

 ローマ軍は数隊に分かれ、アルメニアの国土を攻撃し略奪していきます。また同時に、同盟国のコンマゲネやイベリア(イベリア半島とは関係ない。カフカスに位置する王国)、アルメニア東部のモスキ族などにもアルメニア領を攻撃するように命じ(ゴールズワージー[2019] p. 371)、ティリダテス軍を追い詰めます。

Google Mapより筆者作成


会談

 この間にも使節のやり取りが行われますが、攻撃をやめさせたいアルメニア側と、ティリダテスを皇帝のもとに呼びつけたいローマ側で、議論は平行線のまま進ません。

 そこで、コルブロとティリダテスが直接会談しようということになります。ティリダテスは自身の護衛は騎兵1000人で、「コルブロが連れてくる護衛の数と兵種については、文句をつけない。ただしその兵らは鎧も兜もつけず、平和な扮装でくること」を条件として突きつけます(タキトゥス『年代記』第13巻38節)。

 しかしコルブロは、武装した敵に対しては非武装の兵がいくら居ても役に立たないので罠であると確信し、逆に「両国の利益に関係した問題は、全軍の居合わせる前で討議するほうが、より公平に思われる。」として、会談の場所を指定します(タキトゥス『年代記』第13巻38節)。この場所はローマ軍の戦列歩兵を敷くのに適した地形でした。

 会談当日、コルブロは第六軍団に第三軍団の兵3000人を組み込みつつも、軍団の鷲旗は一本だけにして兵力を偽装し、ティリダテスを待ちました。コルブロが本当に会談を望んでいたのか、攻撃を仕掛けるつもりだったのかは分かりませんが、戦いとなればローマ軍の得意な形の会戦に持ち込むには十分な戦力だったでしょう。しかし結局、ティリダテスはこの様子を見て接近を拒否して陣に戻ってしまいます。

 その後、ティリダテスは黒海沿岸のトラペズスという町から繋がるローマ軍の補給路を遮断しようと試みますが、コルブロはその補給路を守る軍をしっかり用意していたので攻撃は失敗しました。かつてパルティアへ遠征したアントニウスが、こうした補給路を狙う作戦により破れたので、教訓として対策したのかもしれません。

コルブロの遠征②

コルブロの攻勢

 そこからコルブロは、戦争を早く終わらせるために、攻勢に転じます。敵の城塞を攻撃することで、敵軍を守勢に追い込み、戦いの主導権を握ることが出来るのです。コルブロ自身は堅固なウォランドムという要塞へ向かい、他の比較定小さな要塞にも軍を分けて向かわせます。

 コルブロはウォランドム要塞を充分に偵察した後、軍を4隊に分け、そのうち1隊には兵の持つ盾を亀甲状に固めて屋根のようにして頭上を守るテストゥドという陣形を組ませ、城壁の破壊を命じます。他の隊には松明や槍を弩砲から撃たせたり、遠方から投石させたり、梯子を城壁にかけさせたり、四方八方から絶え間なく攻撃させました。

 そうして1日も経たない内に要塞を占領すると、若者は殺し、非戦闘員は奴隷として売り飛ばし、戦利品を獲得しました。他の隊を派遣した要塞も同様に陥落させ、周辺の要塞は戦うことなく続々とローマ軍へ下っていきました。

首都の攻略

 コルブロは軍を再集結させ、アラクセス川流域に入り、首都であるアルタクサタへ向かいます。川に接したアルタクサタの城壁から狙い撃ちされないよう、離れた所で渡河し首都へ迫るローマ軍。

 ティリダテスは、戦えば条件の悪い所へ引き込まれると恐れていました。しかし今まで通りに会戦を避けてアルタクサタを捨てて逃げれば、自分の威信は地に落ちます。ティリダテスは決心してローマ軍へ攻撃を加えようとします。
 
 一方のローマ軍は、中央に第十軍団、右側に第三軍団、左側に第六軍団を置いた中空の方陣で進軍していました。そして隊列の間に輜重兵が配置され、両翼には弓兵の支援を受けた騎兵が置かれ、特に左翼の騎兵の列は長く伸びており、突撃してくる敵の脇腹を食い破れるような形になっていたのです。これは、敵の攻撃に即応できる陣形でした。

筆者作成

 これに対し、ティリダテスはローマ軍の飛び道具の射程外から攻撃したり、軽騎兵でちょっかいをかけて追撃を誘ったりして、陣形を崩そうとしましたが、コルブロの軍は追い討ちをかけないように厳命されており、隊列は乱れませんでした。

 騎兵隊長の一人が功を焦って突出し、すぐに射殺されたこともありましたが、むしろそれが手本となりローマ軍は堅固な陣形を維持したのでした。

 確かめようのないことですが、コルブロの、騎兵に対する深追いしないようにという命令は、かつてのカルラエの戦いの戦訓を知っていたからかもしれません。カルラエの戦いにおいて、クラッススの軍の騎兵はパルティア騎兵に誘い出され、深追いした所を包囲殲滅されたので、そのことを知ってのコルブロの対応だと考えると、妥当性があるように思えます。

 攻めあぐねたティリダテスが退く頃には夜になっていたので、ローマ軍は野営をします。コルブロは、夜のうちに軽装の兵を率いてアルタクサタを包囲しようかとも考えましたが、偵察隊がティリダテスが逃亡したことを報告してきたのでその考えを捨て、翌朝まで待ちました。

 そして街を包囲し攻撃しようとしましたが、門が開けられ、中の住民が降伏してきたので、戦うことなくアルタクサタを占領することができたのです。

 しかし、コルブロの軍は都市を維持しつつ遠征を続けるような余力はなかったので、住民を逃がした後にアルタクサタを破壊してしまいました。

コルブロの遠征③

 首都を攻略しても、戦争は終わりませんでした。コルブロは翌59年春に、南西方面へ転進し、アルメニア第二の都であるティグラノケルタへ向かいました(シェルドン[2013]p. 119)。この進軍路は1世紀前にルクッルスが進んだものと同じルートを選んだものであったと考えられています(ゴールズワージー[2019] p. 375)。

 この行軍は食糧不足と過労によりかなり過酷なものだったようです。さらに水不足のうえ猛暑という状況でしたが、コルブロは兵たちと共に苦痛に耐え行軍を続けました。

 ローマ軍は、彼らを歓迎する者には危害を加えませんでしたが、抵抗や逃走した者は処罰し、その者の土地を壊滅させていきました。そうした厳しい処置が影響してか、アルメニア貴族によるコルブロの暗殺未遂事件も起きました。

 ティグラノケルタの攻略については、タキトゥス『年代記』では、いよいよティグラノケルタに近づくとその都市から使節が来て、降伏の意思を伝えてきたので、ここも無血開城となったと記述があります(タキトゥス『年代記』第13巻24節)。

 しかし、フロンティヌス『軍略論』では、抵抗に遭ったので、捕虜のアルメニア貴族を1人処刑し、その首をバリスタで城内に撃ちこむと、偶然にも軍議の場所に落ちたことで敵が恐れて降伏してきたという話になっています(フロンティヌス『軍略論』第3巻9章5節)。いずれにせよ、大した戦闘にはならずにティグラノケルタを占領したのでしょう。

 ローマ軍がその後もいくつかの要塞を攻略していると、ティリダテスはメディアから再びアルメニアに侵入し再起を図りました。コルブロは部下を先発させ、自身も軍団兵を率いて急行して、ティリダテスを再び撤退させました。

 これでパルティア側の権力をアルメニアからほぼ排除することに成功したことになります。

 この後、ネロに選ばれた、カッパドキア王家出身で人質としてローマにいたティグラネスという人物がアルメニア王に据えられます。

 コルブロは、防衛のために1000人の軍団兵、同盟軍の歩兵3個大隊、騎兵2個中隊を残し、自身はクァドラトゥスが亡くなって総督が空位となったシリアへ戻りました。

おわりに

 コルブロの東方での戦いはまだ続きますが、一先ずこれで一区切りとなります。

 アルメニア王の継承問題に端を発した対立は、当初穏当に収まるかのように見えましたが、ローマ側は皇帝に諮らないティグラネスの対応を許さず、結局戦争に発展しました。

 アルタクサタ付近での戦いを見れば、コルブロは戦術が上手かったことが分かりますが、私にはどちらかと言うと戦略家であるように思えます。

 彼はかつてのローマとパルティアとの戦いから学び、その対策を講じていました。また、部下の訓練や敵の心理を利用したり、大局で戦況を見ることのできる人物であったと評価することができるでしょう。

 遊撃戦や偽装退却といった騎兵軍の強みを生かしたパルティアと、それに対する対抗策を考えて実行していくローマ軍。その最前線にいたのがコルブロだったのです。

参考文献

・カッシウス・ディオ『ローマ史』(Project Gutenberg「https://www.gutenberg.org/files/10890/10890-h/10890-h.htm」)
・タキトゥス『年代記』(国原吉之助訳,岩波書店,1981年,第11刷2004)
・フロンティヌス『軍略論』(Project Gutenberg「https://www.gutenberg.org/cache/epub/16237/pg16237.html」)

・エイドリアン・ゴールズワージー著 阪本浩訳『古代ローマ名将列伝』白水社,2019
・長田龍太『古代ローマ 軍団の装備と戦法』新紀元社,2019
・阪本浩「重装騎兵(カタフラクトゥス)とローマ人」『研究叢書』第14号,青山学院大学総合研究所人文学系研究センター,2000
・三津間康幸「ローマ帝国と対峙した西アジア国家―アルシャク朝パルティアとサーサーン朝」『岩波講座 世界歴史3』岩波書店,2021
・ローズ・マリー・シェルドン著 三津間康幸訳『ローマとパルティア 二大帝国の激突三百年史』白水社,2013

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