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【お題:人工知能】忘れられない夏にして(2)

「……さん、葉月さん」
「はいっ、遅れてすみません!」
 目を覚ますと、能面のような氷堂の顔が飛び込んできた。葉月の顔を見つめていた氷堂は、薄い唇を動かして何か言った。流石にお咎めを喰らうだろうと思って、葉月は身構えた。

「熱中症かもしれません。水分を摂ってください」
 半解凍のスポーツドリンクを差し出す氷堂は、なぜか異様に眩しく見えた。灼熱の太陽が、氷堂の肌のきめ細かさや艶やかな睫毛の一本一本を、必要以上に輝かせているように思えた。背後の青々とした木の葉はまるで海のように波打って、その間から木漏れ日が……
「……ここ、どこですか……?」葉月は荷台の上に立ち上がった。

 目の前には、苔に覆われる幹が鬱蒼と立ち並ぶ森が広がっていた。全ての音が吸い込まれていくような、湿った森だった。やかましい位であった蝉の鳴き声も、もう聞こえない。
「青木ヶ原。通称、樹海です」氷堂はスクエアバッグを担いで、森へ向かった。
「ここに、〝溶けない氷〟が?」
 動揺を誘ったつもりだったが、氷堂はええ、と言っただけで、葉月を置いて樹海に踏み込んでいく。
「ちょ、ちょっと待って。あたしも行きます」
「構いませんが、私の目的は〝溶けない氷〟のみです」
 つまりお前の面倒を見るつもりはない、ということだろうか。葉月は冷房スーツを脱ぎ捨て、勇んで氷博士の後を追った。

 樹海の山道は太陽の光が届かず外界に比べれば幾らか涼しかったが、それでも少し歩けば額に汗が滲んだ。ずっと同じ歩調で、同じ歩幅で、規則的に歩く氷堂の首筋を見ながら、葉月は訝しんでいた。
――どうしてこの人、汗かいてないの……?
 長年研究室で過ごすことで、新陳代謝も悪くなったのだろうか。そう言えば氷堂は、センターに勤務して何年ほどになるのだろう。家族は? 住まいは? 考えてみると同じチームの上司であるのに、自分は氷堂のことを何も知らない。
 氷堂は夜、何を着て寝るのだろうというところまで思考を巡らせたとき、葉月はぬかるんだ土に足を滑らせた。
 咄嗟に手を伸ばし、木の根を掴んだ。足が宙ぶらりんになって、手の力を抜けば崖の下に落ちてしまう。
「助けて!」
 金切り声をあげるが氷堂は手を差し伸べない。ぜんまい仕掛けのおもちゃのように、すたすた歩いていく後ろ姿が目に浮かぶ。
「……くそ!」
 葉月は火事場の馬鹿力を発揮して、雄叫びを上げながら、自分の力で自分の身体を引き上げた。何とか崖まで身を乗り出して、あとは下半身を引きずって這い上がるだけだと思って顔を上げると、しゃがみ込む氷堂と目が合った。
「足着きますよ」

 それから氷堂はどういう心境の変化か、葉月と歩調を合わせて歩いた。行き過ぎることも、遅れることもなく真横に並んで歩いた。
「もうっ。面白がって見ているなんて、悪趣味ですよ。こっちは死ぬかと思って肝を冷やしたんですから」
 頬を膨らませて言うと、氷堂はゆっくり瞬きをして葉月を見下ろした。
「寒いですか」
「びっくりしたって意味ですよ。もしかして国語苦手?」
「……日本語は難しいですね」
 まるで外国人のような言い草だ。
「むしろ暑いですよ。どうしてそんなに涼しい顔をしていられるんですか?」
「涼しいことを考えるといいですよ」
 涼しいことを考える。葉月にとっては、かえって難しい。
「例えば?」
「炭酸の音でも聞きますか。シュワシュワシュワ……」
 突然飲み物の声真似を始めた氷堂に、葉月は思わず噴き出した。
「氷堂さんって……変な人」と笑いながら言った刹那、信じられないことが起きた。
 氷堂が笑ったのだ。瞬間的に、しかし明らかに、左の口角が薄っすら上がったのが見えた。
 鉄仮面の氷博士が自分に笑い返したことが嬉しくて、また自分の頬も緩む。そんなこそばゆいやり取りをしている様子を森中の木々に見られているような気がして、身体が熱くなった。

 杉の木がまばらになった平坦な場所につくと、氷堂は持っていたスクエアバッグを下した。「今晩はここにテントを張ります」
 葉月は辺りを見渡し仰天したが、氷堂は黙々と床を作り始めた。
「熊とか……でないんですか?」
「近くまで寄ってくるようなことがあれば、逃げましょう」
「気づいたころには遅いんじゃ……」
「一キロ圏内に入ってきたら起こします」
「どうしてそんなの、わかるんですか?」
「どうしてって、熊は生きていますからね」
 葉月は眉を寄せた。投げたボールを返してもらっていないような感じがする。いやしかし深く考えない方がよい。研究者というのは往々にしてそういう生き物だ。氷堂が大丈夫だというのだから、大丈夫なのだ。
 葉月は諦めて、テント造りを手伝った。
「風鈴をさげておきましょうか」氷堂は涼し気な音の鳴る透明な鈴を取り出しテントの入口に釣り下げた。
「熊避けの道具ですか?」葉月は初めて見る形の鈴に、目を瞬かせた。ガラスを泳ぐ金魚が可愛らしい。
「葉月さんは生まれたときから、夏なし時代でしたね。ではこちらも、ご存知ないですか」
 氷堂が取り出したうずまき型の線香を見て、葉月はぽかんと口を開けた。こんな奇妙な形の線香は、見たことがない。
「無理もありません。蚊は絶滅してしまいましたから。良い香りがしますから、焚いておきましょう」
 氷堂はしゃがみこんで、ライターの頭を擦った。小さな揺れる火を見て、葉月の心は高揚した。
「キャンプみたいで楽しい。これでアイスを食べながら、星を眺められたらな」
「アイス、食べますか」
 
「あ、あたし、アイスを食べるのがずっと夢でっ」
 氷堂が調査用バッグから取り出したラムネ色のアイスを、葉月は鼻息荒く受け取った。
「アイスはもう市販では売っていません。これはアルギン酸を加え、溶けにくくなるように改良した特別仕様のものです」
「これがアイス」
 葉月が丁寧に包装を破いて、愛おしそうにアイスを見つめる様子を、氷堂は実験動物を見るような目で見ていた。
「やだな。そんな、見ないでください。穴が開いちゃいます」
「穴が? 失礼しました」
 アイスを舐めるべきなのか、噛みつくべきなのか悩んで、まずはぺろりと舐めた。甘くて冷たい刺激に肩を上げて、一気にかぶりついた。
「そんなに急いで食べたら……」
 額の奥がつんとしだして、感じたことのない痛みに葉月はぎゅっと目を瞑った。

 二人はテントの前に腰を下ろして、満天の星空を見上げていた。
「氷堂さんは、どうしてこの仕事を?」
「生きる目的が、明確になるからです」
 氷堂はテストに回答するように言った。
「氷堂さんが生きる目的はなんですか?」
「今は〝溶けない氷〟を持ち帰ることです」
「それは仕事上の目的ではないですか?」
「私には仕事上の目的しかありません」
 氷堂は淀みなく言った。
「葉月さんの、生きる目的は何ですか」
 葉月は言葉を詰まらせた。
「なんだろう……まだ、決まってないかな……」
「迷うことは、人らしさだと思います」
「ふふっ。急に詩人。氷堂さんって、何歳?」
「社内秘です」
 なにそれ、と葉月は肩を揺らした。
「葉月さん、あれが、夏の大三角形です」氷堂はペンライトで、夜空の星を指した。
「夏の大三角形……」葉月は仰向けに寝転んで、その輝く星を見た。あれらが何光年も離れた場所にあると思うと、宇宙の広大さにため息が漏れた。
「綺麗」
「あれは天の川です。昔は七夕という行事があり、織姫と彦星は年に一回、あの川を渡って会いにいくことを許されて……葉月さん?」
 葉月は寝転がりながら、目尻から涙を垂れ流していた。
「涙。情動の涙を流すのは、人間だけ。美しいものを見て涙が流れるのは、人間の特権です」
 氷堂はまるで、自分はそうでないというような言い方をした。
「この世界で私と氷堂さんが出会った確率は、どれくらいかな」
「人が一生のうちに出会うのは3万人と言われています。地球の人口で割れば、0.003%。30万分の1の確率です」
「じゃあ、殆ど奇跡ってことだね」
「奇跡。確かにそうかもしれません。人間同士ですらその確率なら……」
 言い留まった氷堂に、葉月はなに? 顔を向けた。
「これ以上は社内秘です」
 葉月は、なんだよぅと言って氷堂の肩を叩いた。

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