見出し画像

精神性が物質社会として世界に投影されるとき

いつも使っているトイレットペーパーがなくなったとき、毎回、スーパーやドラッグストアで買ってきては使い、またなくなったら買ってきてと、トイレットペーパーは日常のルーティンの中で『物』として存在しています。すぐ取り換えるものなので、できれば安いものがいいでしょう。人によっては漂白剤を気にする人もいるかもしれません。定期的にやってくる忙しい合間に済まさないといけない用事ですので、なくなったら自宅よりも職場近くの店で買ってくることもあると思います。

しかし、このトイレットペーパーが何からできていて、どんな思いでつくられているのかを考える人々はあまりいないと思います。トイレットペーパーの存在感はトイレに設置したあとは、意識は使用時のみ集中し、それ以外は、特別に視界に入ってくるものではありません。

しかし、同じ顔をしたトイレットペーパーの中に1つだけ不良品があるとしたら、そのトイレットペーパーの存在感は大きくなります。
湿気で萎れていたり、先端が異様に破れていたりすると、
『なぜ、この1つだけこんなことになっているのだろう?』と考える機会が生まれます。不良品と向き合うわずかな時間の間、『物』存在感は一気に増します。
1つだけ血液のような赤い染みがついていたらどうでしょうか?気持ち悪くて使いたくはないですよね?滅多にないでしょうが笑
店に行って取り替えてほしいと頼みに行って、それなりの労力と時間を費やす人もきっといることでしょう。

そのようにして、価値が置かれていない『物』は、目的の用途に反するような他の何かと違うとき、その人にとって存在感が増します。

今、問題提起されつつある量産型資本主義社会でも同じ現象が起こります。
会社の利益のために時間内に同じ作業が求められる効率重視の社会では、会社のやり方や経営方針に従うべきはずなのに独特のやり方をする人や、怒られたり、失敗をし続ける人が目立ちます。何事もないときは存在感はないはずですが、イレギュラーな日常がもたらすわずかな時間の間、対象の人物の存在感は一気に増します。トイレットペーパーと同じ原理です。つまり、私たちは『他者』『物』として見がちであるということです。

これが、精神性が物質社会反映されているひとつの例です。
トイレットペーパーにお金をかけろと言っているわけではありませんので誤解されないようお願い致します🙇💦

このような感じで周囲の環境にはある種の空間性が備わっています。
平たく言えば空間に性格があるということです。

トイレットペーパーを例にしながら、もう少し説明してみます。

トイレットペーパーはどこに設置されるべきものでしょうか?
➡もちろん、トイレです。

それは、なぜですか?
排便や排尿時に必要だからです。

トイレットペーパーを台所で使う人は、ほんとんどいないかと思います。

そのようにして、『物』の存在の意味は、『私』の目的が先にあることによって、『物』が置かれる空間さえも位置づけます。
『物』『私』にとって使用できるかどうか、『私』にとって役に立つかどうか、そうした有意義性、もしくは友好性『物』『私』の世界(空間)に招き入れる条件となるのです。

例えば、ある商品について問い合わせをしたいとき、店員の態度が悪かったとします。聞きたいことも教えてもらえませんでした。
きっと、あなたは不快な思いをすることになったでしょう。人によっては、そのようなことはあってはならないと、激怒することもあるとは思います。
期待した態度をとらなかった『店員』は、商品を案内するべき存在であり、さらに『役に立たなかった』ため、この出来事はあなたに不穏な時間をもたらします。あなたにとって、その日限りの役に立たなかった『店員』は、店にいる誰かのはずで、その人がどこからやってきて、どんな人で、今日なにがあったのだろうかなんて、どうでもいいはずです。あなたにとって役に立ってほしい『店員』の存在は、店の中にしかいない。これを道具的存在者と呼びます。

ですので、この物質社会では、人間関係道具的存在者として見られがちでもあるとも言えます。友人や恋愛でも仕事でも自分に友好的かどうかが第一です。自分に対する批判だけでなく建設的な指摘でさえも『私を認めていない』と判断します。『私を喜ばす人』であれば誰でも友好的だと見なしてしまうこともあるでしょう。
恋愛では、相手の要望ばかりに従う都合のいい男(女)も、自ら道具的存在になりにいっているということです。恋愛相談では決まり文句ですね🙄。愛するあの人の気が向いた時間にしか存在しない。会社でも仕事を大量に抱えて一人残業する社員がたまにいますが、彼らもまた道具的存在という立場をとってしまうのも同じです。『私』は、会社にとって職場という空間にしか存在しない。『私』の世界は、配慮や気遣いによって認識された世界に心を奪われてしまっている。『私』とは、そのときどきの立場で閉じ込められているおのれの内面から出てゆかず、常に他者が意識している『外部』に存在しています。

しかし、流行りの「Noと言える私になる」や、ポジティブ思考といった、他者との関係性を1つに定義してしまうことで、『私』の人格を向上させるための本来もたらされるべき有意義な関係性を失わせる危険性もあります。例えば、仕事であれば、効率化を図るために仕事を見直す機会になるかもしれませんし、慣れない業務であれば、ある程度こなせば忍耐とスキルを身にけることができます。仕事内容の見直しを上司に相談することでコミュニケーションを磨く機会にもなる。昇給を目的にに自分の交渉術を試すこともできます。もちろん、転職を考える機会にもなるでしょう。
このようにして他者との関係性は、見かけは不和に見えてもいくつもの可能性を潜んでいます。そして、その人の性格でどんな可能性があるかは様々です。

しかし、人々の思考は『役に立つか立たないか』『友好的かどうか』といった道具的存在者として働くのが常です。なぜなら、毎日の普段の生活の中で気にとめることがない場面場面を、用意されている運命的なものと捉えることはなく、自己都合による責任回避によって誤解しているからです。
※この場合の責任は他者に対する責任自分に対する責任が含まれます。
※自分に対する責任回避とは、自分を動かすことの責任を回避するものは、気分による怠惰です。休息と怠惰は違います。例えば頑張ったからご褒美を自分に与えるのか、むしゃくしゃして満たされないから食でストレス発散をするのかの違いです。よくあるパワハラ環境で自分を押し殺しながら生きているような、その場しのぎの他者への対応も自分の本心や正直さへの責任を放棄しています。
他者に対する責任回避とは、小言少しの軋轢「私は被害者である」といった捉え方で、その現象が起こった意味を曲解することです。

運命的なものとは、例えば、配偶者と出会ったとき、天職につくきっかけや避けられない死に対して、そういった稀におこる人生の一場面を運命的なものとして、私たちはテレビドラマや漫画、小説から教えられてきました。


かの有名な聖なる書物にとっては、私たちにとって悪と教えられていることも善となることもあるようです。


そうやって、教えられてきたことを当然のように捉えることで、他者との関係性が道具的存在となってしまっているのが、この物質社会の特徴です。


私たちがイメージする世界とは、宇宙も世界の絶景や世界に住む人々も他者が論じる世界や写している世界であり、『私』の世界で現れること(暴露という表現の仕方もある)は限定的です。そうした空間を『世界』と呼んでいますが、『私』が認識している事物的に存在するような、家族や職場の人々、その他もろもろの出会ったすべての存在者を意味するとしたら、『私』が居る空間性格は、私の性格から構成されている世界性からはじめて『私』の世界に居る存在者を解明するべきなのです。
とくに、あらゆる場面で配慮的な気遣いをする私は、その人間関係が置かれる環境という名の空間性において基礎づけられています。したがって、その人の世界で出会った存在者(他者)と事象が運命づけられている現実と認識したとき、人ははじめて私を悟ることができるのです。それと同時に存在者と空間性を見抜く洞察も可能となります。

そのためには空間性(物質)内部に閉じ込められている私の性格を知る必要があります。

私の性格を知る方法はただ一つ。
他者と対比させたり、事あるごとの『私』の反応を現象的に様々に描き出してみること。それが『私』を解明する唯一の手段です。
よく客観視という言葉が使われますが、客観を世の中の人々や家族や友人など知り合いに当てはめて、あの人だったらどういうだろう?、どう思うだろう?とういうのとは違います。あくまでも、私の他者に対する反応私の状態をテレビ画面から見ているように冷静に俯瞰する必要があります。

ところが、これまでの「存在論」は、私の性格からではなく、まさしく空間性(物質)のほうから私の性格を通り越して「私」の世界を広がりあるものとして学的に解釈してしまっているというところもあります。



と、ハイデガー哲学をかなりかみ砕いて物質社会を説明してみました😃
今までのまとめでもありますが、現存在の境界線をあまり貼らずに説明しています。

何かしらのきっかけになりましたら幸いです😃
それでは、また~👋✨

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?