使徒パウロによる布教の結晶、野蛮人の回心と改心
哲学を語りたいのですが、やはり、その後のケルト人に関して記事にしたほうがよりいい内容になると思いましたので、再び歴史の話に戻ります。
ガラテアのケルト人
時は紀元前278年。ガラテアはアナトリア中北部の地域でケルト系ガリア人が定住しました。「ガリア」はギリシャ語で、ラテン語では「ガリ」と呼ばれたようです。
隣接するビテュニアの王ニコメデス1世(在位:紀元前278年~255年)からケルト人はこの地域を提供されました。
ガラテアを支配した部族は、トロクミル族、トリストボギイ族、テクトセージ族がそれぞれの州を擁立して支配していたと言われています。
その後は、一時的にローマの属国にはなりましたが、自治権は与えられたものの、しかし、カエサルによってローマ帝国に吸収されたりと、ローマによる激しい時の流れの中で過ごすこととなります。
ケルト人の移住は、紀元前390年にはブレネンスの指導のもとですでに進行していました。ローマ帝国に吸収されるまでの流れは、下記の記事のとおりです。
このような流れで、ガラテアに移住したケルト人はガラテア人と呼ばれるようになります。ガラテヤ人は徐々に周囲の人々と同化し、シリア・ギリシャやフリギア人の習慣や服装を取り入れ、様々な王国や諸侯国の傭兵として、今日まで受け継がれている伝統的な役割を繋いできました。
州は全部で4つに分割されて、各州に裁判官を配置。その下に判事、軍事指導者、さらに下に2人の従属司令官と2人の下級指揮官によって統治します。民衆は、テトラルクという実質的な王が裁判官と協議して制定した法律に従って生活することが求められました。
裁判官の権力が乱用されるのを防ぐため、裁判官は、重要な事件(特に殺人などの死罪)が影響します。3部族の全ての州300人の代表からなる元老院に対して責任を負わなければならず、ドル ネメトンと呼ばれる神聖な場所で定期的話し合われました。
ちなみにネメトンというのは、ネメトン(複数形:ネメタ)は古代ケルト宗教の異質な神聖な空間とされている場所です。
この時代のローマでは人間の完全なる去勢に関しての概念がなかったようなので、黒い衣装を着ている女たちというのは、去勢した髪の長い男性だったのではないかと思っています。個人的にですが。
ドルイド教をはじめて知る人にとっては奇妙な話に聞こえますね。
そういう宗教なのです。宜しければこちらもどうぞ。
ネメトンは、ケルトが移住していたフランスやイギリスでも、テメノスやギリシャ神殿の原型にほぼ相当する場所だったとも言われています。接頭辞dru-は、ギリシャ語で樫を意味するdrusに由来します。ケルト系アイルランドでは、樫を意味する単語はダウル(daur)であり、この単語がギリシア語の同義語に似ていることは、従妹ぐらいの親戚同士であれば素人でも明らかです。したがって、ドルネメトンは樫の木が見下ろす礼拝所であり、神聖な木立であると同時に闇の瞑想場でもありました。
信仰していた神から考えても、母なる女神キュベレとその息子アッティス(愛人という説もあります)に捧げられた聖都ペシヌスが、ガラテヤ西部のトリストボギイ部族の支配地域の境界近くにあったことからも、彼らの法律は神々に由来していたことが示唆されます。古代ローマ 時代のギリシア系の歴史家ストラボンは、聖都ペシヌスはガラテヤ人が支配していなかったにもかかわらず、ガラテヤ人の宗教的中心地であったと主張しているほどです。
聖都ペシヌスは、天から降ってきたと言われる大きな黒い石を中心に発展した古代遺跡で、ガラテヤ人がフリギア語でアグディスティスと呼んで崇拝していた女神を象徴していました。アグディスティスの責務は、保護、法律、秩序でした。考古学的証拠は、ガラテヤ人が定期的に聖都ペシヌスを訪れていたことを示唆しており、この地域での地位を高めるために中心的な宗教的場所を支配することで都市一体を占領した可能性さえあります。
ケルト人の足跡には去勢した神や両性具の神が見られますが、あのヤギの神であるバフォメットも両性具なのは意外なところですね。
ガラテヤ人は早くから地母神キュベレと定期的に対立するように描かれた全能の騎神であるフリギアの天空神サバジオスの崇拝を取り入れたようです。サバジオスの彫刻は指に蛇が巻き付いているものもあります。
キュベレとは、(もともとはキュベレイア、「山」を意味します)は、紀元前2500年頃から、この地域の古代ルヴィア人とハッティ人の女神であり、フリギア人によって崇拝されていましたが、サバジオスの馬がキュベレの月の雄牛に蹄を載せているローマ時代の浮き彫り(現在ボストン美術館に所蔵)を正しく解釈するなら、これは女神に対するサバジオス神の優位性を意味すると考えられ、次第にキュベレからサバジオスに取って代わられたのかもしれません。
それに蛇と馬を繋ぐものといえば、聖書に書かれている内容が思い浮かばれます。
サバジオスは、杖や槍を振り回し、混沌を象徴する世界蛇を踏みつける馬上の戦士として描かれています。フリギア人はサバジオスを強力な軍神として崇め、キュベレよりもはるかに崇拝されていました。
このような様々な崇拝をしていたケルト人ですが、戦士としては逸材ではあったものの、略奪を繰り返しながらみかじめ料を請求して生活をしていました。支払わなければその町ごと滅ぼすというやっかいな性格を持つ人々でもありました。どこの国に行っても野蛮人と呼ばれ、扱い方が難しかったケルト人にも転機が訪れます。
キリスト教の到来
新約聖書の著者でもあり、キリストの使徒でもあるパウロは、ペテロは割礼を受けたユダヤ人を対象にし、パウロは割礼を受けていない異邦人を対象に布教していました。
ガラテヤにはキリスト教の共同体があり、パウロ自身が創設したものでした。信徒たちはかつて異教徒であったものがほとんどでしたが、この共同体はパウロが離れた後で、「異なる福音」を伝えるものたち(教師)が現れ、信徒の間に混乱をひきおこしていたことが聖書からもうかがえます。パウロはこのような教えに耳を貸さないようガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めてました。
現代の聖書学者たちの研究では現れた教師たちとは「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒」が主流となっています。彼らは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ教の律法を完全に守るよう要求していたということです。新約聖書のガラテアの手紙から推測すると、ユダヤ教からの改宗者たち契約のしるしとしての割礼の意味を強調していたことも読み取れます。
ガラテヤへの手紙の中では、このような一説も。
ケルト人でもあったダンはヤコブの第五子でした。こちらも前回の記事で書かせて頂いた通りです。ヤコブのもととは、ダンの可能性もあります。
割礼とは、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、赤道沿いのアフリカ原住民などの間に見られる男性もしくは女性の陰部の一部を切開あるいは切除する宗教的慣行です。肉体の性欲を抑えるためにあったのでしょう。ですので、この場合の割礼の者がユダヤ教徒ということです。割礼がある人々は恐れられて異邦人とユダヤ人であるイエスの弟子ケパは食事をしなくなって互いにはなれていったとあります。ダンの恐怖による統治は、前回の下記、記事に書かせて頂いた通りです。よく似ているなと思っています。
そして、アナトリアはかつてのアケメネス朝ペルシアでした。キュロス2世はユダヤ人をバビロン捕囚から解放した人物でしたね。
とあるように、この地域にはユダヤ人でも異邦人の文化に溶け込む様々なタイプのユダヤ人がいた可能性もあります。
しかし、ヤコブのもとから来た割礼をもつ人々がきっかけで、歯車が狂いました。彼らの言動がガラテヤの信徒たちに大きな動揺を引き起こしたことも聖書からわかります。
パウロはまるでバビロン捕囚を思い出すかのような一節を記して説得は続きます。
そして、パウロは迫害を逃れるためにユダヤ教を勧めるユダヤ教徒がいることを指摘します。
直近から考えてもユダヤ人によるユダヤ迫害、もしくは少なくともユダヤ人に友好的な人々によるユダヤ人迫害の歴史はありました。改宗ユダヤ人による偽ユダヤ説が一般ですが、その奇策の答えをパウロは一言で言い当ててしまっているのです。
彼の訴えは功を奏してキリスト教徒の改心のみならず、ガラテヤの人々のキリスト教徒への改宗も拡大しました。同時にサビアゾスとキュベレの信仰は、イエス・キリストの信仰へと変わっていきます。歴史学者ゲルハルト・ヘルムによると、「ドルネメトンの管轄下にあったキリスト教共同体は、パウロによって設立された最も古い共同体の一つであり、ガラテヤはこの地域で最も活気のあるキリスト教の中心地の一つに成長した」と記しているほどです。
当初は古代の宗教的な祭礼や儀式を守り続けていましたが、ガラテヤの人々はほぼ完全にヘレニズム化しており、ケルトの習慣もローマの文化に置き換えていました。キリスト教が彼らの古い宗教に取って代わり、神殿は教会に変わります。これと同じパラダイムは、830年にイスラム教徒がアナトリアに侵攻した際にも、軍事的な影響を伴いながら繰り返されました。その頃には、ガラティアにあったケルト文化はほとんど残らなくなります。
ガラテアという地名は、主に聖書に出てくる聖パウロの手紙と、おそらくトルコのイスタンブール郊外にあるガラタに由来するのではないかとも言われています。
ということで、ケルト人の中に、もしくはバビロン捕囚後のユダヤ人の中に改心した集団がいたことは間違いはないでしょう。パウロもまたユダヤ人でしたので、ユダヤ教からキリスト教を経てユダヤ人による回心となったというところでしょうか。
それが後に日本にやってきて建築・医療・教育・灌漑工事等さまざまな技術や文化をもたらした集団である後期の秦氏と見ています👀
次回はそのあたりの記事を書こうと思います。
区切りをつけて今日はこのあたりで。
たくさんの記事がある中、限りある時間を使ってここまで読んで頂いたことに感謝します🙇
宜しければ、次回以降もお付き合いくださいませ。
それでは、また。
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