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“偽善者“という言葉を目にすることがあります
「私こんな良い事をしました」というネットの書き込みに対して
「それは偽善だ!」という指摘の文脈で見ることが多いのですが
そもそも、これは何を指摘している言葉なのかが
わからない時がある 

ドラマやアニメなどでも
「この偽善者め!!」なんてセリフが飛び交ったりしている
私自身もよく言われる
家族や友人から、もちろん冗談でだが
それもあってか「偽善てなんだ?」
そんな疑問がずっと頭の中をグルグル
ちょっと考えてみることにしました

辞書でこの言葉を調べてみると
「〘名〙 うわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せかけること。また、その行為。」
それに合わせて「偽善に満ちた社会」という例文が
そんな悲しい例文があるのかとちょっと切なくなる

対義語として「偽悪」という言葉が
現在進行形で中2病の私にはとても魅力的に聞こえる。。。
いや待て、一旦「偽悪」はおいといて
まずは「偽善」から

上部をだけ飾る善人とはどういうものか
そもそも、善人か悪人かをどう見極めるのか
善人とは
心が善良な人、行いの正しい者を指す言葉だが
その人がどちらかを判断するにはその言動を見るしかない

偽善者という言葉の使われ方を考えてみよう
パッと思いつくのは
善意に見せかけて、自分の目的を果たそうとするパターン

想起したのは会社に掛かってくる営業の電話だ
気になる営業電話と、うんざりする営業電話がある
・前者の方は、電話の中でこちらが悩んでいること「ニーズ」を聞き出し
その悩みに訴求してくる営業の掛け方だ
もちろん、向こうにも営業ノルマはあるのだろうが
あくまでも双方にとって “WIN-WIN“ な形を持ちかけてくる
もしこちらに悩みがない。その商品では悩みを解決できないとなると
「またの機会に」と静かに手を引いてくれる
 
・後者の電話は
自分が売りたい商品の説明をひたすらにしてくる
こちらが、必要ないと返答をしても
「いやいや、こんなに良い商品なんだから」と電話を切らせてくれない
自分がノルマをクリアすること、自分が “Winner“ なることだけを
ひたすらに押し付けてくる
とても、、、疲れてしまう、、、

この営業電話の例をとって考えてみると
少なくとも後者は「偽善者」とは言えないでしょう
自分の事だけを考えてのことだろう
(15分も時間を掛けさせおって。。。)

前者の方はどうだろうか
営業ノルマや、会社の利益の事はもちろん考えているだろうが
こちらの悩みを解決するという「善意」は表明してくれている
実際に契約してみると
スタートアップから実装するまでちゃんと寄り添い
こちらの悩みを解決してくれる
(手の平を返される場合もあるが。。。)
 
この両者は偽善者なのだろうか

人の言動には必ず、目的がある
その目的は必ずしも一つではないだろう
会社の利益を上げるという目的でも
会社を成長させる為。仲間を守る為。家族を養う為。
といった善意が根源となることもあるだろう。

その結果、営業先に対しての対応の差はあれど
善意の為の行動である可能性はある

これを善悪で判別することなどできる気がしない
彼らの真の目的がどこにあるのか
どうやって判別するのか

偽善者という言葉の使われ方に
もう一つのパターンがある
善行をしようと画策するのだが力が足りずそれが叶わない場合
よく物語で
正義に憧れ悪者に戦いを挑むが、無念にも負けてしまい
悪者から「この偽善者が!!」と罵られる
そんなシーンをよく目にする 
正義に憧れた彼は本当に偽善者か?
少なくとも悪を正そうとする善良な心は持っているはずだ
善人の定義
“心が善良な人、行いの正しい者“をみなしているだろう
この場合は“善“と判断しても良いだろう
だから、「やらない善より、やる偽善」という言葉が
生まれたに違いない

私が偽善者と言われるのはどちらのパターンか
心の中では善意を持って行動しているつもりではある
力が及んでないパターンである事を望みたい

ちょっと逸れるけど
「俺は必要悪だ!!」というキャラクターがいるが
自分で必要悪だと豪語するキャラは
基本的には悪だよね

本当の必要悪は
最初に出てきた「偽悪」を行うものだろう
偽悪は、偽善から派生して生まれた言葉でもともと存在していた言葉ではないらしい

善人が正義を守る結果、悪行をしなくてはならない状況で
生まれる現象のことだと思います

単純なところで
ヒーロー物ってその節が強いように思える
一般的に
人を殴る行為は“悪”に分類される行為だ
だが、勧善懲悪の世界観ではしばしばそれが許される
昔のア○パンマンがいい例だろう
悪事を働く者を、パンチで倒す
これは本来は善行のはずだが
「暴力は良くないんじゃない」とクレームが上がって
今はその瞬間を直接表現されなくなっているそう

それでもア○パンマンは偽善者とも偽悪者とも言われない
彼の行動には“正義“と“力“が伴っているからだろう

善を判断するには
行使する者がもっている“正義を前提“に
実現するための力がないといけないということだろうか

しかし、正義は見方によって変わる
なら偽善者という指摘の本質は
違う角度から見ることなる正義の齟齬から生まれる
摩擦ということになりそうだ

偽善も偽悪
これは全て
人と人との解釈の違いでしかない場合のほうが多いのではいか
(詐欺師みたいな完全な偽善者は置いといて、というか悪か)

それなら私は
この言葉を自分の口から出すことは当分なさそうだ

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