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ゆうぐれの櫛

櫛というさびしきかたち思うとき仮名にひらきてゆうぐれは来る

 
 「好きな歌人は誰か?」という問いには、なかなか答え難いところがある。誰に、どのような状況で訊かれているかで答えは変わり得るだろうし、 
実作者であればこそ、それほど不用意に自身の好みを明かしたりはしない。
実際のところ、自身の作風に直に影響を与えた歌人ももちろんいるけれど、作風の変化に呼応するかたちでその都度、贔屓の歌人も移り変わってきた。
 それでも、もし仮に、この先たった一人の歌集しか読めないのならば、迷わずに永井陽子の名を挙げたいと思う。

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ

『ふしぎな楽器』

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり 

『モーツァルトの電話帳』

 誰をも惹きつけてやまない愛唱歌。その魅力は初読時より変わらない。時の流れのなかで決して色褪せない、そんな歌をこの先、一首でも読めるだろうか。

 その他、少しだけ歌を引く。

「歌はリアルでなければならない」と言ふ男の背丈美しからず

『ふしぎな楽器』

海のむかうにさくらは咲くや春の夜のフィガロよフィガロさびしいフィガロ

『モーツァルトの電話帳』

貧乏籤からりと引いて引き捨ててれんげ明かりの道帰るのみ

『てまり唄』

 一首目。代表歌である先の「望遠鏡」の歌を巻頭に置き、彼女の作風が確立された『不思議な楽器』より。自身の作風に対する矜持が見てとれ、彼女が歌に求めた〈美しさ〉を思う。
 二首目。彼女が愛したモーツァルトをモチーフに、〈音楽性〉という彼女の最大の特徴が表れたこの歌も、何度でも声にして読みたい愛唱歌である。
 三首目。あるいは最近はこうした歌に惹かれている。リアル・・・な実生活において彼女が感じていたであろう機微や苦悩の一端を垣間見せるが、しかしひとたび歌となれば、その美しい調べに救われる心地がする。
 

 そんな永井陽子の歌で、今最も惹かれているのは次の一首だろうか。 

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

『なよたけ拾遺』

 「夕暮れに櫛を拾った」というだけの事柄が、こんなにも美しい詩になるとは。主格を入れ替えたリフレインのかなり技巧的な歌ではあるけれど、一首を読み下すと、そこには「櫛」の存在だけが残され、「わたし」は背景として夕暮れの彼方に消えてしまう。その「わたし」の希薄さに何よりも強く惹かれる。
 
 
 わずか三十一文字の短歌という詩型は、実はその音数のなかで(言おうと思えば)かなりのことが言えてしまう。短歌をはじめて間もないころは、そのなかでいかに饒舌になるか、いかに巧く言い表すかということを意識していたように思う。けれど、この永井の歌を読む度に、本当に重要なのは〈いかに何かを言わないか〉であるということに気づかされる。

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