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合わせ鏡にとらわれて(1)

合わせ鏡にうつす無数のわたくしが鏡を去りてゆき我も去る

 こういうタイプの拙歌を見返すたびに、つくづく自分の作風は構造主義的だなあと感じてしまう。それは感覚的にはネガティブなもので、しかもその傾向は徐々に強くなっているようだから始末が悪い。自身の作風については、散文的傾向の強さを自認しているけれど、文体としての散文性というより、作歌における思考プロセスが論理的すぎるというのが欠点なのだろう。

 以前、ある友人に冒頭の一首を見せたときのこと。その友人は、普段は短歌に触れる機会は少ないのだが、この歌を「写実的で(理系出身の自分にも)分かりやすい」と評した。なるほど、と思った。おそらく、日常的に短歌に接している人は、まずこの歌をもって「写実的」とは評さないだろう。けれども、彼の言う通り、先の一首を読めば、おそらく誰もが瞬時に同じ視覚イメージにたどり着く。たとえそのイメージが現実世界においては不可視だとしても。そして、その「誰もが瞬時に」という分かりやすさこそ、この歌の傷なのだと思う。
 
 それはさておき、合わせ鏡というのは、実は僕にとって、大切な創作上のモチーフである。冒頭歌の他、合わせ鏡の無限に続く(ように見える)像やあるいはその閉塞感を、これまで何度か歌に表してきた。物理的な原理としては、光が鏡面間を反射し合うという単純なもの。けれども、その幻想的でどこか不気味な現象には、この世ならざる感覚があって、そこに惹かれるものがある。

 そんな合わせ鏡が印象的に描かれた小説に、早瀬耕の連作集『プラネタリウムの外側』がある。その一篇、「月の合わせ鏡」では、コンピュータ上で、月と地球の間に合わせ鏡をつくるという実験が物語の核となっている。光にも速度があるため、合わせ鏡に写る姿はすべて過去の像である。そのとき、月と地球ほどの距離を往復して像を結ぶとなると、鏡の奥にゆくにつれて物体と像には時差が現れる。「鏡の中の自分にじゃんけんで勝てるくらいしか役に立たない」という月の合わせ鏡のなかに、主人公が見た過去の姿とは――。

 早瀬作品は、処女作の『グリフォンズガーデン』も、異色の犯罪小説『未必のマクベス』も、鋭い機知と洞察力で現代を見つめる近作『彼女の知らない空』も、いずれも本当に魅力的だ。なかでも『プラネタリウムの外側』は最も儚く痛切な物語だと思う。科学的見地やギミックの面白さで知的好奇心を大いに刺激してくれるが、それ以上に恋愛小説として魅力的なところがこの作者の真髄だ。六つの連作は円環を成す構成をしていて、物語は鮮やかなラストシーンへと向かってゆく。そして、第一篇に呼応するように置かれた最後の一文。何度読み返しても、その一言の台詞に心底痺れるのだ。(次回へ続く)

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