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『福岡伸一、西田哲学を読む』の感想とそれから考えたこと

2019年以来の二読目になる。2019年当時は大学院生だったが、この本の内容の深さと濃さに感動した覚えがある。元々西田幾多郎の哲学には興味があり、善の研究は読んだことがあった。でも自分が知りたかったのは、「一即多、多即一」や、「絶対矛盾的自己同一」といった考えであったが、それは西田哲学後期の考えで、処女作である善の研究には載っていない。西田幾多郎の著作は著作権が切れていることもあり、ネットからダウンロードして印刷して読んでみたが、原文のなんと難解なこと……。途中で挫折してしまった。
そこで出会ったのが本書『福岡伸一、西田哲学を読む』である。たしか本屋を散策しているときに見つけた記憶がある。
西岡伸一という生物学者と西田哲学系譜の哲学者である池田善昭との対談本である。西岡さんは理系的な考えで読者の代わりに疑問やツッコミをぶつけてくれるので、我々一般人が西田哲学を理解するうえでの大きな一助となっていて大変ありがたい。

西田哲学においての肝は以下の3点である。

ピュシスとロゴス

ピュシスは自然でロゴスは理論である。
現在の論理・常識・認識、科学等すべてロゴスの立場に立つ。それに対して西田哲学ではピュシスの立場に立脚してピュシスの立場を取り戻そうと語りかけている。しかし、西田の著書にそのことが直接明言されていないがために西田のスタンスが分かりづらく著作の理解を難解にしている。
ピュシスとは『善の研究』における「純粋経験」と同義である。純粋経験とは、主客の区別が生まれる前の本来の姿のことである。つまりは、ありのままということ。自他の区別が入るとそのもの自体を正確にとらえられなくなってしまうため、ありのままの姿をとらえるピュシスの立場に帰ろうと言っているのである。ありのままの姿とは、「~は……だ」という認識する以前の自己と対象が渾然一体として存在している状態を言っている。それは仏教で言うところの、「五感を通じての認識を離れた実在の世界」ということになる。西田はピュシスの立場に立つことで、実在について説こうとしていたのである。
西田の著作を読むと「~べきだ」「~でなければならない」という言い切りが非常に多く感じられる。それは、通常の認識がピュシスとは対極にあるロゴスに立脚しており、通常のロゴス的思考で考えるとピュシス的な結論には到達しえないため、ピュシス的思考はこうあるべきだと断定の形で記載している。この後出てくる、絶対矛盾的自己同一や一即多、多即一といった独特の用語も、ロゴス用語では説明できないため、ピュシスの世界観を伝えるために苦労して作り出したオリジナルの用語だと理解できる。

絶対矛盾的自己同一(逆限定、逆対応)

まず西田哲学の用語について考えるよりも、福岡さんの生命論が絶対矛盾的自己同一(逆限定、逆対応)の具定例になっており理解しやすい。そのため西田哲学の考えに入る前に福岡さんの考える「生命とは何か?」について説明する。
福岡さんは生命をこう定義する。

エントロピー増大の法則の中にあって秩序を保ち続ける動的平衡である。

まず、エントロピーとは乱雑さを表す指標である。エントロピーが増大するとは、物事は事前のままにしておくと乱雑さが増していくという法則であう。この法則のために、部屋は勝手にきれいにはならず、冷めたお茶は沸騰しない。つまり、秩序は常に壊そうという力に晒されていることになる。しかし、生命はそう言ったエントロピー増大の法則の中でも一つのまとまった秩序を保ち続ける。このひとつの秩序を保ち続けるものこそ生命の本質と言える。
生命を分析的な目で見ていくと器官があって、各細胞があって……となっていくが、各細胞を合体させてもそこに生命は立ち現れない。それは、『鋼の錬金術師』の人体錬成の失敗にも表れている。人間の構成要素は「水35L、炭素20kg、アンモニア4L、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g、イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素」だが、それらを混ぜ合わせても人体を錬成することはできなかった。

人体錬成

人間の細胞は約1カ月で全て生まれ変わり新しいものに生まれ変わっているという。ここからは別の本で読んだ考えも入っており、余談的になるがはなしを続ける。構成要素は入れ替わり続けているが、それを統合する変わらない何かが背後にあるということで、それこそが生命の本質と言える。つまり思考のような精神的な存在こそがそれにあたるかと思う。しかし、精神や思考も経験を通じて変化していく。幼少時と今の私は姿かたちだけでなく、考え方も変わっている。ではその思考や精神の裏にはさらに変わらない何かがあるということになる。それを繰り返していくと、客体を設定できないものが私そのものということになる。それは、「ただ私はある」ということだ。詳しくは以下の本にその話が載っている。まだ未読のため、今後読み終わった際、これについても記事を書きたいと考えている。


少し脱線してしまったので話を戻す。
常に壊そうという力に抗って秩序を維持するためには、エントロピーによる崩壊に、「先回り」して自ら秩序を壊して、再構築する必要がある。細胞は内と外の境界にて、絶えず分解と合成を行っている。その境界上では常に自らを壊し新たな自分を生成する。この分解と生成がバランスを保っていることを動的平衡と言う。福岡さんは生命の本質をこの境界における動き――動的平衡――にあるという。つまり、生命とはすべてを壊そうとするエントロピーの巨大な大河の中における小さな淀みのようなものだ。肉体というものは確固たる形をもって外界と隔ててているように肉眼では見えるが、分子のレベルではそうではない。分子レベルの視野では肉体などスカスカである。分子的視野で見ると、生命とは分子密度の高い「淀み」でしかない。しかもその淀みは絶えず入れ替わり続けている。この流れ自体が生きているということである。

ここで西田哲学の話に戻る。
絶対矛盾的自己同一とは、矛盾していることを自分の中で同一化することである。先ほどの分解と合成という矛盾する作用を同時に成立させている動的平衡こそが、生命における絶対矛盾的自己同一だ。
これは一即多、多即一にもつながる考えである。分解は一⇒多の作用で、合成は多⇒一の作用である。一から多の動きが、空間の形式で同時存在的秩序であり、多から一の動きが時間の形式で継起的存在秩序である。

*多が空間で、一が時間ではない。そういった静的なものではなく、あくまで流れこそが空間と時間に当たるのだと思う。

分解はただエントロピー増大の流れに身を任せているわけではなく、エントロピーに「先回り」することであえて自らを壊して作る。この先回りによって時間が生み出されるのだ。実は生命は時間の中を流されているように見えるがそうではない。
生命は先回りによって、未だ来たらざる未来を現在に引っ張り込んで時間を追い越すことで時間を生み出している。これは過去と未来の同時性、過去と未来の絶対矛盾的自己同一である。

時間論

時間はもともと流れではなく静止したもので、未来・現在・過去は渾然一体として同時に存在するものなのではないだろうか。未来も過去も同じもので観てる側が異なるだけなのだから。
生命は”生きる”上で、現在を中心として過去と未来をグルっと回すような円環運動を生じさせ時の流れというものを生じさせているのではないだろうか?
時の流れを生み出すということが、瞬間、瞬間という非連続的事象を連続的な一連の流れにすることができる。私たちは生きながら認識しているため、今現在しか認識することができず、未来・現在・過去が同時に存在する円環の時間をイメージができないのではない。五感に基づく生命活動を離れた直観によって到達できる実在世界に真の理解があるのだろう。
しかし、現在の科学ではミンコフスキー時空間に代表されるように、時間を空間化した一直線の時間として認識しており、実在の姿とは離れた理解になっている。ゆえにゼノンの矢のパラドックスが出てくるのだ。本来、時間と空間は絶対矛盾的自己同一の作用によって生まれ、時間と空間は不可分だ。ゼノンの矢のパラドックスでは、時間が分離され忘れ去られているため、そのようなパラドックスは成り立たないということになる。時間とは点の集まりではなくあくまで連続したものなのだ。

ゼノンの矢のパラドックス:射ている矢の瞬間瞬間を考えると空中に静止していると考えられる。それならば、射ている矢は動いておらず、静止しているはずであるというパラドックス。

*カントによれば空間・時間はそれ自体で存在するものではないため、実在ではない。空間・時間はは人間の認識に含まれる形式で本来、実在の世界においては一つの秩序である。


今回、本書を読んでの感想とそこから考えたことを自分なりにまとめたことで自分の中で改めて整理されたと思う。今後も西田哲学の研究をしていきたいなと考えている。。。。

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