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何もしないことの素晴らしさ

時々、思います。僕たちは「何かをする」ことの奴隷ではないか、と。僕たちは「何かをしたい」というよりも、「何もしない」ことを恐れているのではないか。時間を無駄にしているような焦燥感、何者かにならなければならないような強迫観念、そこから逃れるように「何かをする」状態に身を投じてはいるのではないか、そんなことに思いを巡らせたりします。

こうした考えが確信に変わったのは、『<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと』を読んでからでした。

「レンタルなんもしない人って何ぞや?」という方もいらっしゃるかも知れません。その名のとおり「何もしない人」を「レンタル」するサービスですが、自分で書いていて訳の分からない説明です。ここはご本人の言葉をそのまま使いましょう。

『レンタルなんもしない人』というサービスを始めます。1人で入りにくい店、ゲームの人数合わせ、花見の場所とりなど、ただ1人分の人間の存在だけが必要なシーンでご利用ください。国分寺駅からの交通費と飲食代だけ(かかれば)もらいます。ごく簡単なうけこたえ以外なんもできかねます。

最後の「なんもできかねます」がご本人の強いこだわりに思えます。平たく言えば、「ただ、そこにいるだけ」という存在を提供するサービスなのです。人を楽しませたり、アドバイスしたり、そういう類の仕事は一切しません。そんなサービスに需要があるのかと思いきや、なかなかどうして、たいへん多くの人が彼を求めているのです。本書では、様々な依頼に「何もせずに」答えることを通じて見えた、様々な気付きがまとめられています。人は何を求めて生きているのか、そんな根源的な疑問のヒントが見えてくるようです。

「何もしない人」を求める人

まず気になるのが、どんな目的でこのサービスを利用しているかということ。「何もしない人」を求めるのは、どんな人なのでしょうか。

代表的なのが「ただ、悩みを聞いてほしい」という依頼です。悩みなど、家族や友人に聞いてもらえば良いじゃないかと思うかも知れません。しかし、そうではないのです。レンタルなんもしない人の特性として、「見ず知らずの他人であること」「簡単な受け答えのみで、解決をしないこと」があります。これが非常に重要なのです。

悩みを相談するということは、自分の弱点を晒すということでもあります。過去から関係が構築出来ていて、これから先の未来も継続していく人に悩みを相談するという事は、弱みを握られ続けることになります。少し極端な表現でしたが、関係が近いがゆえに、悩みをフルオープンにすることを躊躇する心理はとても理解できます。

また、もうひとつ依頼者の動機として、悩みを相談した際に、アドバイスや説教をされることが苦痛というものがあるようです。興味深いのは、悩みに限らず「それ良いね」「面白いね」というポジティブな反応ですら鬱陶しい場合があること。本書では、この原因を「自分の話に何らかの評価が発生してしまうから」と論じています。悩みをはじめ他者に何かを話す時、それにまつわる全ての経緯を伝えることはできません。つまり自分の言いたいことの断片に過ぎないのですが、そうした断片の情報に基づいて相手から何らかの判断が為されることに、人は強い不快感を覚えるというのです。

レンタルなんもしない人が体験した相談の中には、元オウム信者であったことをカミングアウトするという、たいへん重い内容も含まれていました。当然ながら友人に開示することなどできず、「自分には人に堂々と話せる過去がない」ことに孤独感と不安を抱いてました。それが、レンタルなんもしない人がただ「なんもせず」聞いてくれたことで、心の重荷が幾分か和らいだのでした。時に、話し相手が何もしないことで、相談者は想像を働かせる余地が生まれるといいます。

依頼者は思い込みや前後の文脈で勝手に補完し、イメージを作り上げている。自分が悲しいときには慰められているように感じ、嬉しいときには一緒に喜んでくれているように感じる。同意され、理解されたと感じることで、聞き手が赤の他人であっても自分の存在が確かなものになるのかもしれない。反対に、僕が口を開いて話し続ければ、そのぶん、僕のリアクションに対して相手の想像の余地はなくなっていくだろう。

人は自分が何に悩んでいるのか、実はよく分かっていません。「仕事が向いていない」という高尚な悩みも、突き詰めるとその正体は「相談するのが怖い」「お客さんが怖い」「怒られるのが怖い」みたいな単純なものだったりします。悩みを「仕事が向いていない」という荒い解像度のまま相談すれば、返ってくるアドバイスも漠然とした「もう少し続けてみたら」という荒いものになって当然です。前に進むためには、悩みを相談する前に、悩みを言語化して正体を突き止めるプロセスが欠かせません。

レンタルなんもしない人は、この言語化を「何もしない」ことで促しているように思うのです。人から悩みを開示された際には、「言語化の過程」なのか、その後の「解決策立案の過程」なのか、まずは「何もせずに、ただ聞く」ことで見極めてあげることが必要ではないでしょうか。

何もしないことは無価値なのか

レンタルなんもしない人がこのサービスを着想した背景に、「存在給」という概念があります。心理カウンセラーの心屋仁之助さんが提唱している概念で、「給料は労働という『何かすること』の対価ではなく、『存在していること』に支払われる」というもの。「何もしない人にも価値はある」という主旨です。

産業革命以降の価値観と照らし合わせると、これはにわかに信じがたい主張です。アダム・スミスは労働価値説で、カール・マルクスは剰余価値説で、各々異なるプロセスながらも総論としては「労働による価値創出」を説いています。また、日本国憲法では勤労の義務が謳われているのは承知のとおりです。社会思想、憲法ともに、人に対して明確に「何かすること」を課しています。

それと呼応するように、僕たちは幼い頃から「何者かになる」よう思想教育が施されてきました。テストの点数、運動能力、あらゆる場面で競争を課され、テレビでは努力した人間が夢を叶える美談が垂れ流されます。大人になる頃には、「努力し、能力を開発し、何者かになる」ことが本源的で疑いようのない価値観として刷り込まれ、「何かせずにはいられない」人間に作り上げられるのです。

こうした常識にどっぷり浸かった価値観からすると、存在給は受け入れがたい概念であり、レンタルなんもしない人は異質な存在です。

とはいえ、レンタルなんもしない人も、もともとは「何かをする」人間でした。大阪大学の大学院を修了し出版社に就職しましたが、ほどなくして退職しフリーランスのライターをやっていた過去を持っています。彼はこれまでの人生で「期待されたり、何か目的を持ったり、物事を決定したりすることがストレスだったと述懐します。一般的には生きていくモチベーションとされる要素を「ストレス」だとバッサリ断じているのです。

彼は「何もしない」自分の役割を「触媒」という言葉で表現します。触媒とは、化学反応の反応速度を速める物質のこと。触媒がなくても化学反応は問題なく起こりますが、それがあることで反応が素早く進みます。触媒自体は必須の存在ではなくとも、物事が進むには「あったら嬉しい」存在なのです。

たとえば、前述の「話を聞いてほしい」依頼は、相談者の悩みが解決されずとも、不安が晴れていくスピードを速める触媒の効果を発揮したといえます。他の依頼をみると、「一人だとレポートを書くのをサボってしまうので、傍に座っていてほしい」「食器洗いが億劫なので、片づけるのを横で見ていてほしい」など、一見すると首を傾げてしまう依頼ですが、触媒の文脈だと理解が進みます。

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは「パノプティコン」という刑務所を引き合いに出し、「人を律するには、監視という物理的圧力より、『監視されている』と感じさせる心理的圧力の方が効果が高い」と指摘しました。また、古代ギリシアの哲学者・プラトンは「始めは全体の半ばである」として、最初の一歩さえ踏み出すことができれば、もう全体の半分の工程を終えているも同然であることを説きます。

レポートや食器洗いの依頼者は、「自分の行動を見られている」という心理的圧力を作り出すことで、自分自身に最初の一歩を強いているのではないでしょうか。「何もしない」人の存在で、全体の半分の工程を強引に終わらせているとも解釈できます。これが家族や友人ですと、つい「早くやれよ」「いつ始めるの」など口を挟むことで「何かして」しまい、試みが頓挫してしまうかも知れません。急かされるほど宿題をしたくなくなるのは子どもだけではないでしょう。なるほど、「何もしない」ことで最初の一歩を促し、全体の半分の工程を素早く進ませているという点で、レンタルなんもしない人は確かに「触媒」の役割を果たしています。

このように、レンタルなんもしない人の活動をみると、確かに「何もしない」でも、触媒という価値が創出されていると頷けます。抽象化すると、価値とは、必ずしも「何かをする」ということではなく、役立つかの有無に関わらず「他者に何らかの影響が伝わっている」ことなのかも知れません。

僕はいま、人や社会に対してなにか役に立つことができる人でなくても、つまり何もできそうにない人であってもストレスなく生きていいける世の中であってほしいと、わりと本気で思っている。それは、僕自身が肌で感じている人の価値と、社会の中でその人が評価される価値の間に、ギャップを感じているからだ。

何もしないことの素晴らしさ

本書では、「何かする」よりも「何もしない」方が良い結果をもたらした依頼も紹介されてます。会議です。

知らない会社の人たちによる知らないサービスの開発会議に出席させられている。みんなパソコン見てるなかバーガー食ってる。会議が盛り上がってきてるところにガトーショコラきた。

これらは、レンタルなんもしない人が依頼を受け、知りもしない会社の会議に出席している時にリアルタイムで流していたTweetです。依頼者は会社の社長が多いようです。

想像できるでしょうか。会社の会議の中で、一人だけ知らない人が私服でハンバーガーを食べながら特に何もせず座っているのです。会議中、依頼した社長はレンタルなんもしない人に、「これはどう思いますか?」「このイラストは分かりますか?」と聞いたりしていました。それに対し、レンタルなんもしない人は一言、「わかりません」とだけ。ここから、会議のメンバーは部外者にも意味が分かるように、専門用語や社内の共通言語を避け、言葉を選んで説明し始めたというのです。

サービスを提供する側からすると当たり前だと思っていることが、サービスを受ける側からしたらよくわからなかったりする。そういうことが可視化されたことで、ひょっとしたら会議に参加した人たちの視野が広がったんじゃないか。

会議の内輪感を消し、メンバーが新たな言語を見つけ、新しい視座から物事を見始めるという作用が発揮されたのです。これもまた触媒なのかも知れません。もしもレンタルなんもしない人が頑張って議論を理解しようとしたら、この作用は生まれなかったでしょう。「何もしない」ことが、モニターテストの役割を果たしていたのです。

僕は提案書を作る際、なるべく平易な言葉に変換し、かつワンフレーズでの説明を意識しています。糸井重里さんは「日本語は『とても切ない』より『切ない』の方が、切なさが伝わる言語」と言うように、本質に近いほど言葉は短く、分かりやすく、そして強度を持ちます。社内で議論する時も、もっと「このサービスで何が変わるのか」を端的に表現できる言葉を見つける時間が取れないものかと思ったりします。レンタルなんもしない人に倣って、あえて「何もしない」存在を用意すると、こうした時間が獲得できるのかも知れません。

やや論理の飛躍かも知れませんが、「何もしない」ことが「何かする」より良いというのは、時代の価値観が Less is more やミニマリズムに移り変わっていることにも繋がるのかも知れません。足し算よりも引き算、過剰よりも不足、装飾よりも簡素。レンタルなんもしない人という存在が成立しているのはこうした時代背景とも接続しているようにも思えてきます。奇しくも、本書ではこんな指摘が為されていました。

とにかく、僕がサービスを受ける時に感じるのは、サービスを差別化する時ときに「しすぎる」方面に差別化しがちだということだ。

思えば「何者かになる」というのも、自分の不足ばかりを見つけ、ひたすら足し算を続ける価値観です。それはそれで尊い姿勢なのかも知れませんが、ある種の生きにくさや息苦しさも感じます。モノが飽和し、もはや何が欲しいのか、どこへ向かえば良いのか分からなくなった時代で、足し算を求めるのも不思議な話です。

こうした、ひたすら「何者かになる」ことを追い求める人は、最近では「ワナビー(wanna be)」と嘲笑的に捉えられたりすることがあります。過度に冷笑的になる必要はありませんが、ワナビーの背後にある「足し算を強要する価値観」に対する嫌悪や忌避の表出ではないでしょうか。レンタルなんもしない人は、このワナビーと対極のポジションを取っていることが、支持を集めている一因なのかなと見ています。

レンタルなんもしない人は基本的に「自分が楽しいから続けている」姿勢です。ただ、twitterフォロワー15万人というインフルエンサーというポジションも自覚しているようです。「何もしない」という、ある種のばかばかしさの隙間に人間の性質が垣間見え、問題提起と意味的価値を与えている点で、表現手法はアートそのものです。

僕としては、「みんなが好きに生きているんだから、僕も………」みたいな流れの方が乗りやすい。

生き方の選択肢が多様になったことで、かえって選択に強いストレスを生じてしまっている現代です。昔であれば「こうして生きろ」という強いモデルを打ち立てられたのでしょうが、今はもうそんなものは望めません。強いモデルに背を向けたレンタルなんもしない人は、他の誰よりも望んでいた「何もしない」という生き方の流れを、自分自身の手で作り上げているのかも知れません。


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