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わたしたちの夢見るからだ【第四話】:つくることのひらかれ(前編)

 前回書いたのは、わたしの踊りの原初体験のようなものだった。踊りをするものとしての個人的な体験だ。

 踊ること、もう少し拡げて、芸術作品を作ることの可能性について。
 芸術作品というものは人に見せる(あるいは体験させる)前提で作られる場合が多いと思うし、なんであれ作品と呼べるものが、鑑賞する対象を全く想定や意識せず作られることは珍しいように思う。しかし作り手が創り出したその作品を、どのように、誰に、いつ見られるか(体験されるか)というようなことは、作り手に完全にはコントロールできない。
 実際、どのような内容の鑑賞をされたかということは作品の実績として大きな意味を持ち評価を左右するだろう。
 だがそういった意味の次元の外側で、作品はいち作品として存在している限り、常にまだ見ぬ他者からの鑑賞の可能性にひらかれている。 

 印象的な言葉がある。わたしの覚えている限りなので正確な引用ではないことを了承いただきたい。

 まずひとつ。ある劇場での観劇の前に、劇団の総監督の方の話を聞く機会があり、そこで耳にした言葉だ。
 《本来劇場に来られない人々こそが劇場を必要としているのではないか。》

 また次に、絵本の編集者の方が書かれた本の中にあった言葉。
 《受け手が子どもであるという前提のもとでこそ、絵本という形式にしかない可能性が開かれてゆく。》

 作品が作品として在る時の鑑賞への可能性、その開かれについての言及としてこのふたつの言葉を捉えた上で、わたしなりに考察をしてみる。
 作品の可能性は、他者に見せるという目的がある以上鑑賞する他者を終着点に閉じてゆくものと思ってしまいそうだが、そうでない側面もまた存在する。
 鑑賞する他者を中心とすれば作品の価値は同時性の中にしか存在しないようだが、実のところ作品というものは現在の価値観や評価軸だけではなく未来、過去にまで開かれているのではないか。
 絵本の作家の方からよく聞く言葉がある。
「子どもの時の自分に向けて描く」
「子どもの頃の自分が喜ぶように描く」
 そうして描かれた作品の指向性は、時系列を遡及して過去へ向かう。
 過去の人へ向かう作品の作られ方がある以上、あらゆる人間が生まれて死ぬ世界では、作品の可能性は、全ての死者とこれから生まれる人々にまでひらかれてあると言えるのではないか。その可能性は作品の在り方以上に、作品の作られ方において、作り手にとって大きな意味のひろがりを持つことになるだろう。
 多元的にひらかれたものを作ること。逆から言えば、作り出されつつあるものやそれを作るという行為自体が、無限に近い多方向の可能性にひらかれているということ。

(つづく)

執筆者:無(@everythingroii

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