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わたしたちの夢見るからだ【第五話】:つくることのひらかれ(後編)

前編はこちらから。


 踊りにおける身体表現について。
 踊ることは、自ら(あるいは他者)の身体のムーブメントを芸術作品に変えてゆく行為と言える。
 現在の社会と関係して生活することにおいて身体は、実用的手段としての機能の追求を全く免れはしないだろう。実行の道具としての身体。
 しかし踊りの中での身体は社会的な実行に携わることなく、タブローにおけるメディウムのように機能しうる。その存在目的は、芸術的な表現に開かれてあり、自我やそれを取り囲む社会、その中のポジショニングなどとは無縁であることができる。
 そのように存在できることのよろこび、その萌芽についての体験をわたしは前回に書いたのだと思う。

 踊りを体験する以前、わたしはわたしの身体をとらえあぐねていた。きっかけと呼べるきっかけを思い出すことはできないが、わたし(そして同時代に近い社会で生きていた女性たち)の周囲には常に、女性の身体の客観的な美醜についての侮蔑的な表現が跋扈していた。
 小学生の男の子が女の子を罵倒したい時の表現は決まってブスとかデブとかで、それは禿げていない子に向かって純粋な罵倒の単語として向けられるハゲ、のように用いられていた。
 発することは簡単だし、少なくともそういった単語をよく使うようなひとたちの間では、その単語の罵倒語としての機能が疑われることはなかっただろう。当然のように身体の形態に関わるそれらの言葉を侮蔑語にする、していい、して当たり前、スナック菓子の歯ごたえのような軽い感覚。
 あるいは、新聞に挟まれる広告を見た。
 毎朝決まって入っているのは健康食品の広告、この商品さえ摂っていればがんになりません。あらゆる面で健康的に作用します。健康を人質に取った脅迫のような文言たち。
 次いで多いのはダイエットの広告だった。こんなに太っていたため容姿が醜くコンプレックスでしたが、この商品を使ってこのように痩せて容姿に自信が持てるようになり他者からの評価も一変し健康状態も良いようになりました。
 あまりにも簡単に、身体が、その機能、その美醜によるコンプレックスが、購買を刺激する道具として機能させられていた。それらが、意識に留めることすらできない風景のような当たり前さで日常に存在していた。
 ローティーンの女の子たちは、学校で年に数回行われる体重測定の結果に一喜一憂していた。背も伸びかけだというのに、軽ければ羨望され重ければ軽蔑されるであろうことを疑いもせず。
 そういった環境のなかで、身体の美醜に関する主体的な価値観、自分の心身や生活に最適な心地よい価値観を育てることは難しく、自らの身体が醜いとみなされる可能性への不安だけが増大していった。
 社会的にダメを出されない見た目の範囲を綱渡りするような感覚。ゼロサイズへの信仰。評価されることへの恐れ。
 踊りに出会う前のわたしの、自分自身の身体への価値観はそのように偏っていて、コンプレックスの落とし穴をぎりぎりで避けるような日々を送っていた。そのような感覚は、日常として目に見え体験される範囲の環境により醸成され、避けがたいものだった。

 しかし踊る時、わたしの身体はある芸術表現のメディアであるとともに表現そのものだった。
 身体の形態はもちろん表現の内容に無関係ではないものの、それは石彫作品に用いられる石の種類、絵画作品に使われる絵の具の色やテクスチャー、そのように機能して、単純で一方向的な価値体系によって卑下されたりやけにもてはやされるようなことはなかった。
 表現に向かって開かれた時、わたしの身体は抑圧と不自由さから逃れることができた。
 それまで生きてきた中で感じ続けていた社会的な美醜の評価とそれによる抑圧から、初めて意識的に逃れられたと感じた時のよろこびは文字にできない。生きることが報われたとすら思えた。

(つづく)

執筆者:無(@everythingroii

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