わたしたちの夢見るからだ【第六話】:タトゥー/多元的な美しさについて
※摂食障害についての記述があります。閲覧は自己責任でお願い致します。
人間がより美しい形になりたいという思いを抱くことは、社会的な欲求としてほとんど避けがたいことのように思う。
しかし、美しさが何によってどのように定義づけられるのか。また、その欲求とどのように付き合い、どういった形で解消するのか、あるいは折り合いをつけてゆくのか。
自分の場合は、タトゥーを入れると決めることは、自分の身体に可変が不可能な変化を与える決断をすることだった。
タトゥーと、その他生まれつきの皮膚の模様とで違うところをあげるならば、その場所や形、大きさを自分で選択したか否かだろう。
そしてある時のその選択は可視化され、他者と自分自身の視線に晒される可能性を持ちながらそこに在り続ける。
タトゥーに興味はあるが彫ることは考えていないというひとからよく聞く言葉として、飽き性だから、というものがある。
要は気の持ちようが変わった時に過去の選択の結果を消せないことがリスクになる懸念があるということだろう。
タトゥーというものをどう捉えるか。
他者からどう見られるか、に対してフォーカスすれば、他者に対して見せたい自己イメージが変化することはよくあることだと思う。
だが、もうひとつの目線として、自分が自分をどうまなざすかということがある。これにおいて、自らの選択を目にし続けることの意味が新しく立ち上がってくる。
そもそも自分の見た目を根本的、永続的に変化させる選択の機会というものは、わざわざそうしようと決断しなければ遭遇し得ないものだろう。
その決断がない限り、先天的であれ後天的であれ、見た目の部分が中心となる恒久的な変化というものは偶発的に、選択の余地のない外的な要因によって与えられるものである場合がほとんどで、だからこそ古い言い回しかもしれないが「親から貰った体」のような言葉があったりするのだと思う。
身体にあたらしく自分で選択した変化を与えること、それ自体が、タトゥーの図案の内容以上に大きな意味を持つことがありうるのではないかと考えることがよくある。
身体が自分の選択した変化をする。それによって、自分の身体の意味性を自分で刷新することができる。その意味性は意識に影響を与え、新しい自意識の獲得につながる。
タトゥーが体を彩る以上の意味を持つとしたらそのようなことによるのではないか。
自分の話になるが、18歳頃から30歳頃まで摂食障害を患っていた。
自分の身体が太り過ぎだ、とても醜い、という主観が強くなり、けれどストレスを食べることでしか発散できず必要量以上に食べてしまう。より太ることが怖くて食べたものを吐き出す。嘔吐をするので栄養不足からの飢餓状態に陥り、さらに過食行為を重ねてゆく。
摂食障害者のそもそもの痩せ願望についてはさまざまの要素が非常に複雑に絡み合っている場合が多く、もちろん罹患者それぞれの事情により大きく違いもするであろうものなので容易に説明はできないが、自分の場合のおおまかな症状は上記のようなものだった。
その時の自分にとって、身体の持つ意味はとても偏ったものだったと思う。
道を歩いていても自分より痩せた人を見つければ、あの人は自分より細い、自分はまだ痩せていないんだ、もっと痩せなければとのつよい焦りにかられた。
今思えば自分の身体が空間を占めていること自体が許せなかったのだと思う。自己嫌悪の変形として、また自傷行為として、できるだけ自分の身体が占めている空間を減らすこと。無に近づき続ける限りでしか自分の生存を許せなかった。
30歳をすぎた頃、一番症状が激しく体重も少なかった頃よりは、随分穏やかに過ごせるようになっていた。自分の決めた一定の体重を越えさえしなければ食べ吐きのない普通の食事もできるようになり、低体重による衰弱状態も改善し、階段を上るなどの日常動作にも支障がなくなってきた。
ハンドポークタトゥーを始めたのはその頃だ。
もともとタトゥーを自分で彫ることに興味があった。自分の彫りたい絵柄をいちばん理解できるのは自分自身なので、技術を知れば自分が自分自身にとって最適なタトゥーアーになることができると考えていた。
(少なくともその時の自分にとっては)高価な、タトゥーマシンを購入する必要なく、針一本でタトゥーを彫れるハンドポークという技法があることを教わって、自分で自分に彫らない理由がなくなった。
自分に自分ではじめて彫ったタトゥーは、左内腿の小さなワンポイントだ。
彫り終えた時の達成感は快いものだった。自分の手により彫られたその絵柄は洗練されているとは言えず技術的にも難があったが、そういうことを上回る愛着もあった。
そして何より、これからは自分が望むときに望む変化を自分の手で自身に与えることができるのだと思うと、世界が違って見えた。
まさに自分自身の存在や価値観が刷新されたような感覚を覚えたのだった。
痩せと太りの間を激しく行き来することでしか認識できなかった自己の輪郭を、新しい何かによって今までと全く違う形でより確からしく捉えることができた、という感じだろうか。
それは新鮮で、出口のない体重計の数字の中の迷路から救われるような光明を得た心持ちだった。
自分にとっての身体への愛着を、過激な痩せによるあくまで主観的な美しさを得るという形以外で取り返せたことにより、美しさにも多様なかたちや段階があるということに気づけたのだと思う。
自己の身体にタトゥーを発端としての豊かな意味を見出すことによって、主観による痩せと太りの1次元的な美しさの軸から解放された。印象的な瞬間だった。
執筆者:無(@everythingroii)
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