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湯縁

あの頃、僕の実家の側には銭湯があった。

玄関を出て右側を見上げると、当時は建物の向こうに細長い煙突が見えた。
家から歩いて15秒の場所に住む同級生のタケちゃんとよく一緒に行った記憶がある。

風呂から上がって待合室で飲むコーヒー牛乳はとても美味しかった。
タケちゃんとどちらが早く飲めるか競争していた日々が懐かしい。

あれから20年。
最盛期(1974年)には区内に111もあった銭湯は現在(2024年)17にまで減っている。

お客様から必要とされなければ消えていくのは商売として当たり前。
頭では理解しているにも関わらず、少しだけ物悲しい気持ちになるのは何故だろうか。

一律520円で滞在1時間弱。
家で全てが完結する社会において敢えて大きな浴槽へ浸かりに足を運ぶ。
庶民のちょっとした贅沢は、そこはかとなく喫茶店と同じ香りがする。

道に迷っても近くまで行けば銭湯の位置はだいたい分かる。
石鹸のような塩素のような香りが辺り一帯を包み込み、かつては川や用水路だったはずの暗渠(あんきょ)が必ず傍にあるからだ。

今はコンクリートに覆われて見えないが、銭湯から大量に排水されるドブ川も、当時の人にとっては浄土へ向かうための「三途の河」に見えていただろう。

銭湯はそもそも建物が面白い。
受付から脱衣所、そして浴場へと三層構造になっている建物を正面から見ると、大変奥行きを感じるのだ。
この先に何かがありそうな予感はまるで怪談や怪獣映画が始まる前のドキドキに似ている。

そして銭湯はその期待を裏切らない。

番台を抜け、服を脱ぎ、浴場に入ると高い天井の開放的な空間が待っている。
奥には広大な富士と海が描かれ、浴槽の調和した空間が内装好きには堪らない。

ちなみに富士の絵は関東の銭湯特有らしく、関西の銭湯が纏められた本を眺めていると、確かに富士が殆ど見られない。
また大正元年に神田のキカイ湯で始まったとされるペンキ絵も今では多種多様になり、杉並区の銭湯でも3分の1ほどが富士では無かったと記憶している。

閑話休題。

浴槽に浸かって辺りを見渡すと自然と一体になった気になる。
湯気の向こうで朧げに光る電灯と裸体。

老も若きも人の目を憚らず体を洗い、口に含んだシャワーを吐き出す。
無防備に髭を剃り歯を磨き自分の肌を確認している様は、テレビに映るお猿と何ら変わらない。

そして中途半端な高さで区切られた女湯でも同じ光景が繰り広げられている事を想像すると、「ニンゲンだなあ」と思わず笑ってしまう。

普段は会社でずいぶん偉そうにしているであろう叔父様や、女の子の前で前髪をかき分けているイケメンのお兄さんも自分と何ら変わらない。

銭湯へ来るようになってから人を見る目が変わったように思う。
以前は街で出会う人達の態度にムッと来る瞬間もあった。
しかし銭湯で「ニンゲン」を眺めていると、見えている現象の1歩先まで想像が働く。

高圧的な人、無愛想な人、落ち着きのない人。
みんな服の内側に何かを抱えている。

後天的かもしれないし先天的かもしれない。
疲れかもしれないし病気かもしれない。

みんな本当は誰にも敵意など向けたくないのだ。

そんな当たり前の事を頭ではなく体で理解できる。
銭湯が銭湯たる湯縁はそこにあるのかもしれない。

井草湯

参考文献

https://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/069/059/shisaku13.pdf

本記事はツブサに寄稿した文章に一部加筆修正をしております。





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