HSS型HSPってことぐらい知ってる

そんくらいは知ってる。

しんどいで。いざなってみたら。

予備校の時に母さんに相談したのを今でも覚えている。

「人の顔を覚え過ぎてしんどい」

まさか自分がそんなことを人に相談するとは思わなかった。ましてや母に。

自分でも、そんなしんどさが存在することには予備校生になるまで気づきすらしなかった。

顔を覚えすぎるという辛さはもうなくなった。あの時ほど周囲の人の顔や声は気にしなくなった。

厳密に言うと、生きていくために必死に捨てた。

体に生来備わった能力を捨てるのはいつだって難しいししんどい。それでも必死に捨てた。

捨ててしまった今となっては、どうやってあんなにも人の顔を記憶していたのかはわからないが、当時はとても辛かった。

今でも類似の辛さはある。

この間も、10年も前の2回ぐらいしかない喋ったことのない人のことをハッキリ覚えていて周りに怖がられた。楽しかったから鮮明にその人のことを覚えていて、周りが引いていた。

つい、やっちまうんだよなー。

引くほど記憶力が良いって自覚もあるけど、それと同時にあまりの記憶力の良さに周りが引いてるのを見ると、ほんの少し自分の異能力をアピールできた様な気になってる自分がいるのも自覚がある。

でも傷ついてもいる。

他者とは圧倒的に違う能力を有してしまっている自分。

唯一無二で誇らしく、天涯孤独で逃げ出したい。

どこにいけば自分は自分らしく、人と違う部分を誇りながらも、もっとみんなと同じただの人類Aになれるのか。

それはきっと人生を通しての課題なのかもしれない。

人によく話す仮定の話がある。

もし仮に、自分に翼が生えていたら嬉しいか。きっと嬉しくない。周りが飛べないことや、自分だけが飛べてしまうことがあまりにも辛くなる。

次第には、飛ぶ機能よりも羽が生えてることの邪魔さや、羽が生えているせいで早く走れないことばかりが疎ましく思えてくる。走らずに飛べばいいのに、みなと同じルールで闘う陸上競技において劣っていることに耐えられなくなる。

突出した何かを持つとはそういうことだと思う。往々にして、突出して何かができないことが多く、著しく何かが欠落しているものだ。そして、それが堪らなく辛く感じてしまいやすい。(辛く思わない人もいるから、そういう人のことがとても羨ましい)

僕は辛くなるとすぐHSPや発達障害のことをよく調べる。そうすれば気持ちが少しは落ち着くことをもう本能的に知ってしまっているからだ。

自分が上手くやれないのは仕方がない。生きづらいのは仕方がないと自分を慰めてやれる。

そんなことばっかりしててもダメであることも知っている。

自分の特性を理解して、ちゃんと仕事や生き方を見定めないといけない。

ただでさえHSPは面倒臭いのに、中でも1番厄介なHSS型HSPの典型である自分を理解して、一歩一歩前に進んでいこう。

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