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【考察】七咲か、綾波か。

皆様ご機嫌麗しゅう。
んぱんてでございます。

この記事は『アマガミ』ちょっとおまけ考察です。
と言っても、考察とも言えないような私案や妄想が大半を占めております。これまでの記事を読んでくださった方に向けてお話ししそびれたことを幾つか記したいと思います。ネタバレ・乱文失礼しますわ!


1. これまでの「考察」

まずはこれまでに投稿してきた記事のおさらいでございます。

【前半】アマガミは「マナザシ」

https://note.com/tenpanco/n/nf8bb1c88d82c

こちらの記事では、身も蓋もないことを言えば『アマガミ』という作品がちょっとした実存主義文学であるということを述べてきたのですね。
「見る・見られる」というコンセプトが通奏低音としてアマガミ世界に響いているのです。
人というのは見た対象を「あたしのもの」にしてしまう……私はその作用を「マナザシ」と呼んでお話しました。
橘純一はこのぶつかり合いから逃避してしまった青年であり、「デアイ」というのは高校2年生の冬に起こったマナザシとの〈出会い〉(仏:rencontre)であるというお話でした。
そのあたりの不安から出発する文学のことを実存主義文学と一般に呼ぶわけですから、まあまあ大袈裟ではありますが『アマガミ』もぜひ仲間に入れてあげてください。

そう考えると棚町薫ナカヨシのクリスマスイベントにて、橘純一がダンボールをかぶって「サバ夫」としてコンテストに出場するシーン(更に元ネタはと言えば『キミキス』の『秘密の集いうどん』ですが)は、ちょっと安部公房の『箱男』を思わせますね。
現在「ダンボールを被る男」というと『メタルギアソリッド』を思い浮かべる方も多いでしょうが、あの作品も実は『箱男』のオマージュだそうですわね。そういえばMGSPWなどそっくり実存主義のお話してましたし。
それはともかく橘純一に「箱の中から一方的に外を覗き見るもの」の性格があるということはお分かりいただけるでしょう。本編のイベントでも「跳び箱」の中に入ってヒロインの体を覗き見たりしますものね。
あるいは決してまなざし返してこない肉体として「お宝本」を収集する橘純一の在り方が恋愛SLG愛好家と共鳴しますし、加えてその匿名性ゆえにプレイヤーの分身として操作しやすいキャラクターとして仕上がっているのです。
同じく棚町薫のスキBESTのスチルでは見目麗しい顔が出ているにも関わらず、その他の外伝作品でも「ダンボール男」として現れるあの立ち絵が妙にしっくりくる所以はこの辺りにあるのかもしれませんね。

【考察】絢辻さんと「蛙化現象」

これは分析心理学的な観点から『アマガミ』を象徴的に読み解く試みでした。もちろん遊びの域は出ませんが。
ここから見えてきたものは登場人物を取り巻く「母性」や「父性」の問題でしたね。
この作品は橘君の「胎内回帰」に始まり、恋愛関係の中で転移される親子関係、そして青年期の成熟や個性化といったテーマが盛り込まれているんじゃなかろうかと。
特にグリム童話『かえるの王さま』のモチーフを通じて絢辻詞が〈父の娘〉から脱するこが描かれているのだということをしつこく述べてまいりましたわ。
様々な神話や童話を引用しましたがそのほとんどは大した意味を為しません。シンボルとして機能していれば十分なのです。
それに1990年代後期の日本という時代設定を絡めて避けて通れないのが「アダルトチルドレン」の問題です。『アマガミ』のメインヒロインが絢辻詞である以上、彼女らの親子関係に纏わる困難について語らざるを得ないでしょう。

さて、ここまで述べてきたことを踏まえて今回はちょっと「イヤなこと」を言いたいと思います。そこが今回の主軸なので少しご容赦ください。

つまり何かというと『アマガミ』という作品自体が100倍まろやかに仕上がった『新世紀エヴァンゲリオン』であるということです。

……何だかこういったメジャーな別作品の名前を引き合いに出して作品について語るのって「イヤなこと」だと思われる方もいらっしゃるでしょう。
私もあまり得意ごとではないのですが、本日は敢えて触れさせていただきたく存じますわ。

両作品の大きな共通項が実存主義文学的な側面と、昔話の引用などから象徴的に「母性」「父性」などを取り扱う点と、主にこの辺りでしょう。
けれどもその他にも細かな部分での符合が幾らかありますのでこの後ご紹介いたします。
……とは言え『アマガミ』が『エヴァ』を下敷きに制作されたのだとか主張するよりも、文化的背景がもたらした必然であると捉えた方が面白いでしょう。

さて、そんなところからまずは何故ナナサキストが世に溢れてしまうのかというお話をいたします。

2. アマガミが「アヤナミ」である可能性


以下、『エヴァ』(特にTVアニメ版と旧劇場版)についてたっぷりとネタバレしていきますのでご了承ください……と言いましても、正直なところ今さら私が畑違いの『エヴァ』を語るのはあまりに畏れ多いのですがね。

アヤナミというのは『エヴァンゲリオン』シリーズに登場するヒロイン「綾波レイ」のことです。
同じ学校に通うクラスメイトでありながらその正体は主人公シンジの亡き母親の複製品であって、いわば主人公の父親ゲンドウの「作品」であるわけです。
シンジくんがそんな「母親のコピー」にドギマギしたり、父親と仲良さそうに話してる彼女を見てエディプス・コンプレックスを刺激されたりするのが面白いのですね。
「母の面影が重なる少女に惚れる青年」の物語といったら『源氏物語』ですが、日本には1000年以上「アヤナミ」的な幻影を追い続けてきた歴史があるのですわ。

『エヴァンゲリオン』という作品群をどう受容するかは人それぞれだと思うのですが、私は基本「ちょっとエッチなボーイ・ミーツ・ガール」だと解釈しています。それはそれは怒られることを覚悟で申しておりますよ。
確かにいかめしいセカイ系SFの描写であったり旧約聖書からの引用だったり……複雑そうに思えますが、あれら全てが思春期少年の混沌と見ればまるで明快なお話です。
14歳男子というのは基本的に神話とSFと家族と実存の問題でこんがらがっているのが「普通」であって、そこに美少女を遭わせると「エヴァ」的な爆発が起きるものでしょう。
あとは少しの寺山修司とメタフィクション的なアニメ文化への自己言及などを加えれば、ほとんど『エヴァンゲリオン』の骨格が組み上がります。
素晴らしき肉付けに私たちがどれほど撹乱されようともやはり基礎の基礎は「ちょっとエッチなボーイ・ミーツ・ガール」なのです。
そう考えると基本骨格は『アマガミ』とさして変わらないじゃないの、と薄々感じ始めたところで様々なものが見えてまいります。

まずは主人公のシンジくんが乗っている「汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」が何かというとお話ですが、あれは疑いようもなく「胎内回帰」のモチーフであるわけですね。
「アンビリカルケーブル」という名のへその緒が栄養していて、コックピット内は「L.C.L」という羊水で満たされているのです。エヴァのパイロットは「シンクロ」して母子一体性を高めることで戦闘能力を得るということになりますわね。これは飛躍した考察でも何でもなく、設定を素直に飲み込むとこう言わざるを得ない部分があるのです。

私がこれまでの『アマガミ』考察で述べてきたのは、これが橘純一でいう「押入れプラネタリウム」とか「開かずの教室」に当たるものだということでした。思春期の彼らは両者共に「胎内」に籠ることで外敵から身を守りつつ戦うことができるのです。
……と言っても『アマガミ』に目立ったバトル要素はありませんよね。
それじゃあ何を恐れて母子一体化するのかといえば、橘君の場合は蒔原美佳やクラスメイトのまなざしがキーでした。つまり「2年前のクリスマス」で待ちぼうけをくらったことをきっかけに閉じこもってしまったのでしたね。彼にとって何かしら外敵がいるとすればやはりそれは「他者のまなざし」でしょうな。
この辺りが実存主義文学的なお話ということです。『エヴァンゲリオン』がそうであるように……と続くのですが。

シンジくんが戦う敵である「使徒」というのもどうやら「他者のまなざし」のようなんですね。
例えば「サハクィエル」という使徒は巨大な目そのものの姿を形取っていますし、「リリス」には目がいくつもありますね。そういえばアスカが「左目」に使徒を封印していたりもしました。
もちろん目に関係なさそうな姿の使徒もおりますし、「まなざし」というよりか「他者」そのものの表象と捉えた方もいらっしゃるでしょう。しかしそれでいて使徒自身は「他者」を持っておらず、一方的かつ暴力的な現象として描かれている気がいたします。
次第に侵食型の使徒というものも現れて心の内を暴かれたり干渉されたりするのですが、それもつまるところ「まなざし」の為せる業でしょう。いずれにせよ自分の世界に閉じこもった青少年がそういった他者関係の表象と対決するさまを描いていることには違いありませんわ。

何を根拠に言っているかと言うと「ATフィールド」ですね。
エヴァや使徒には「ATフィールド」と呼ばれる強力なバリアを展開する能力があります。この「ATフィールド」は作中でしばしば「自他の境界線」とか「心の壁」と言い換えられております。
これは言ってしまえば「心の壁」なのですから、ミサイルを防ぐような防御壁として機能するかはさておき、凡そ全ての人間が持ち得るものなのです。自分と他者の間に絶対不可侵領域を持つことで何を防ぎあっているのかと言えば、やはり「まなざし」でしょう。
『エヴァンゲリオン』という作品は、現代人が各々の「心の壁」の中で孤独に生きる道を選ぶのか、はたまた「人類補完計画」を遂行して巨大な母性(綾波レイ)によって「欠如」の埋め合わせを行い、自他の境界線を失くしてしまうか……といったところがテーマと申しますか、見どころの一つであります。
こうやって考えてみると何となく『アマガミ』と『エヴァ』との境界線が中和されてきたような気がしますわ。

そんなことを踏まえつつ『アマガミ』ヒロインの七咲逢について振り返ってみましょう。

七咲逢は「ママ」なのか

https://note.com/tenpanco/n/nf7709bcf8a14

この記事では七咲逢の父親コンプレックスを仮定して彼女の母性を読み解こうということをやってみました。元を辿ってみると水泳好き・温泉好きというような設定にも何かしら寂しい幼少時代と父なるものの影が潜んでいることが窺えます。
ここで特に重要なのが「初恋」の話でした。「大好きな父親のため、母親に代わって家事をする経験が蓄積されて母性が培われた」というようなことを匂わせるようなエピソードでしたね。

さらに今回のテーマに沿って考えるに非常に面白いのはデアイの段階から「七咲逢が母親似である」ことを明示しているところでしょう。

七 咲「お母さん似だと思いますよ」

七咲逢 デアイ会話 Turn 3 Hi 「世間話」

単純に母性ある少女というキャラクター性から一歩先に見えてくる「七咲家における母親の複製品」としての七咲逢像について今一度思いを馳せてみましょう。

先ほども触れましたが、まず一つ綾波レイと七咲逢に共通する要素としては「10代半ばにして母の役割を負わされる少女」であることが挙げられるでしょう。
『エヴァ』のアニメ第15話にてシンジくんが雑巾を絞る綾波レイを見て「お母さん」を感じるシーンがありますね。
彼はここで初めて直接的に綾波の「母性」を感じ取るのですが、これもやはり七咲と重なる部分でしょう。
以前も述べた通り七咲の「母性」の表現型はお掃除に偏っているのです。このところは小児喘息という仮説も絡めて語りましたね。実際、小児喘息は家庭環境の問題が有意に影響を及ぼすことが言われておりまして、七咲逢の裏テーマの一つだと思うのですよ。
あれこれ勘繰るのは良いけれどそれじゃあ実際に七咲家の「母性」や「父性」がシナリオにどう関わってくるのかといえば、大部分を「郁夫」絡みのお話に託していると見てよろしいでしょう。『エヴァ』の話の中でエディプス・コンプレックスのお話にちょっと触れましたが、あれを単に「父親殺し」といった過激なモチーフとして捉えるのではなく「私と父と母」の三者関係をしっかりと築くためのハードルと考えれば『アマガミ』的に解釈できるかと思います。
つまり「私とあなた(郁夫)」「私と水泳」「私と先輩」といった「私」を中心とした二者関係の自己中心性から七咲逢や郁夫、ついでに橘純一を解放できるかが「成熟」のカギの一つじゃないかということですね。脱中心化です。
スキGOOD、スキBADなどを見る限りこれが今ひとつうまく働かないのが七咲逢という子であると思えます。ナカヨシエンドは幾分かこの色合いは薄いですが、それでも基礎の部分がセカイ系少女であるというのが私の所感ですわ。

と、私はこの辺りからどうしても綾波レイとの比較をやってみたくなりましたので感じたことを以下にザッとまとめます。

①「見られても平気」なヒロイン像

綾波レイに関する衝撃的なシーンといえばTVアニメ第5話、彼女の部屋を訪れたシンジくんが全裸の綾波レイと遭遇してしまうアレですね。
シンジくんは当然しどろもどろになってしまうのですが綾波レイは表情一つ変えません。これがかの七咲逢との出会いイベントに似ていると私はそう思ったのです。
今でこそ素直クールの「無表情系」は一大ジャンル・属性でありますけれど1995年の放送当時としてはまだまだ新鮮な部類でしょう。
七咲との会話(ナカヨシ会話 Turn 3 Mid「娯楽」)に登場する「女性二人組のアイドル」が「Wink」だとすると何とも辻褄が合うというか、時代背景的に無表情の女の子が活躍し出した頃とも言えますね。
七咲が幼少期にこの“アイドル”に憧れて真似をしていた(ナカヨシ会話 Turn 2 Mid「世間話」)という設定自体アマガミ世界における「無表情系」素直クールの流れを背負ったということならば、アマガミ公式が作成した「表情変化が大きいランキング」最下位に位置付けられたことも得心行くといったところでしょう。
第一印象から「表情変化の少なさ」を演出する手段としてあの出会いイベントを用意したとすると、それが実にアヤナミ的な方法であったと言いたいですわね。
あとはおまけに綾波レイとの比較で言うと、綾波が全部「白」だったのに対して七咲が「黒」だったことも、ちょっとした対比と捉えることも出来ますでしょう。

②ボディラインが強調された衣装とショートヘア

橘「競泳水着って、肌にピッタリだからボディラインがよく分かるよね」

七咲逢 アコガレ会話 Turn 3 Low 「エッチ」

これはビジュアル面でのちょっとしたフェチのお話なのですが、両キャラともいわゆるラバーフェティシズム的な衣装を着せられるキャラだということです。つまり七咲の競泳水着は綾波レイでいう「プラグスーツ」にあたるものじゃあないかと言いたいのですね。もちろん綾波レイが競泳水着を着てプールを泳ぐシーンもあります(TVアニメ第10話)
が、しかしこれに関しては特に言うことはありません。ラバースーツのような質感へのフェティシズムを抱く男性は多く(ほぼ全例が男性とも言われますが)男性向けの「ラッキースケベ」的な展開としてこういうコスチュームを見せてくれるヒロインは世に溢れていますからね。

実はより重要なのはショートヘアの方でしょう。高山先生といえば大のショート好きで知られている作家です。彼が最もストレートに好みをぶつけるとされる「5枠」のヒロイン七咲逢がショートというのは納得いただけるでしょう。
特に七咲のシャギーがかかったショートにはかなり曰くがありまして、というのも高山先生ご自身が以前Twitterにて「綾波レイ」の髪型について言及されていたことがあるのですよ。
それが「1995年当時、世間が綾波レイブームの真っ只中にあっても自分(高山先生)にとって『シャギーショート』といえば世界名作劇場『ロミオの青い空』のビアンカだった」というような旨のツイートでして……(何だか今回の論旨とはちょっと拮抗するような……?)
それはともかく90年代ヒロインである七咲の髪型をデザインする際にあの「綾波レイ」ブームを完全に無視することは適わないんじゃ無かろうかということをお伝えしたいのですわ。

橘「その髪型っていつ頃からしてるんだ?」
七 咲「……中学の頃からですね。美容師さんにお任せしているんです」

七咲逢 ナカヨシ会話 Turn 2 Low 「おしゃれ」

特にアマガミSSの七咲は髪型といい顔といい、綾波レイの影をひしひしと感じます。
ED映像にて水中に増殖する七咲のイメージなどかなりアヤナミ的な表現だと思いますわ。勿論まるで偶然という可能性も大いにありますがね。

それを言ったら『エイリアンソルジャー』の七瀬楓なんかも影響しているのじゃないのかと言い出すと話は更にややこしくなります。

③地球全土を覆う〈悪母〉性

これは先ほども申し上げた境界線のお話ですね。他者との境界線で仕切られることを潔しとしなかったゲンドウによる「人類補完計画」とは、人類に「欠如」した母性を綾波によって補完することで一体化し、個体や他者関係を捨てて神がかった存在になることを指します。
「旧劇場版」ではその様子が象徴的に描かれますが、これがまた実に面白いですね。
巨大な綾波レイの塊が地球を覆ってひとしきり大暴れしたかと思うと場面が切り替わって、L.C.L.の海に浸かりながら全裸の綾波に膝枕されているシンジくんの精神世界が映し出されるのです。
どこかで見たことのある光景ね……と思うわけですが、まさしく七咲逢スキBADのそれなんですよ。
以前の記事にて砂浜膝枕のシーンを胎内回帰や母子一体化のモチーフとしてご紹介しましたが、羊水に浸かりながら実の母親の複製品に膝枕されるシンジくんを思えばこそ必然的にそういった結論が導かれるのです。
まだ「旧劇場版」をご覧になっていないアマガミストの方々、ぜひ綾波がシンジの顔を覗き込むカットでニヤニヤなさってください。想像以上にあの時の七咲です。

④「水、気持ちのいいこと。碇司令」

TVアニメ第14話で綾波レイのモノローグに登場する文言ですね。23話にて「レイの深層心理を構成する光と水」という台詞が在ること、それから綾波レイのダミー品が培養槽の中で大量に保存されていたことを踏まえると魂の根拠が「水」のイメージと結びついているのも納得できます。そして作り手である碇ゲンドウを慕う気持ちと重なってこのような意味深長な表現になったのでしょう。先ほど述べたような羊水を介してすべてと一体化する意味合いも孕んでいるでしょうし、何が「気持ちいい」のか、どうして父なるもの(=ゲンドウ)と結びついているのか、ハッキリとしたことは私が断言することは出来ません。
ただ「一体化」と「境界線をなくす」ことはかなり大事そうですわね。
何かというと七咲逢がどうして「水」に浸るかというお話です。

七 咲「何というか、息継ぎのタイミングと、全身の動きがシンクロしていくうちに、頭の中が真っ白になっていくような……」

七咲逢 ナカヨシ会話 Turn 1 Hi 「運動」

当然運動として泳ぐことが好きだというのもあるでしょうが、彼女の場合は同時に温泉好きであることも考えなければなりません。
以前「七咲と風呂に入ることは父親や郁夫を超えることだ」というお話をしましたが、彼女にとって水に浸かることが父なるものとの一体化であることは否めないのではないでしょうか。
まずは父なるものの線を一旦無視したとしても、同じ水に浸かることがどれだけ重視されているかはお分かりいただけるでしょう。橘純一がプールに飛び込む例のイベントとスキBESTの秘湯温泉と繰り返されるモチーフですからね。
やはりどことなく「水の中」にいると自他の境界線があやふやになって、彼女はそれを楽しんでいる節もあるのではないでしょうか。

どこまで参考にして良いものかは分かりかねますが、アマガミSS七咲逢編のED曲『恋はみずいろ』の歌詞に以下のようなフレーズがありますよね。

ステキ 游(あそび) 忘れられない 境界線踏み込まれて

ここで言う「境界線」は「先輩/後輩」「友達/恋人」という恋愛における「境界線」のゆらぎに加えて「自他の境界線」のお話に読み換えても問題ないかもしれません。
少なくとも「自分の家庭/他人の家庭」という線引きについては強い言葉で強調されます(26, 50)から、まるで的外れでもないでしょう。
七咲と水の中、裸で絡み合うのは「アヤナミ」的な境界線の融解を思えば必然の出来事なのかもしれませんね。

④「花、同じものがいっぱい。要らないものもいっぱい」

綾波レイのモノローグ第二弾ですが、これはどうでしょう。
私はこれを「綾波レイ自身が大量のダミー品・コピー品の一つに過ぎない」ということを言っているのだと解釈しました。つまり彼女自身が花に喩えられているのです。
『アマガミ』的にはこれが「二期桜」の話に繋がるのですが、作中の扱いとしては綾波レイの言う「花」と対照的であると言えます。
数ある桜の木の中からあまり公には知られていない一本を見つけ出したことに意義があるのですから、「同じものがいっぱい」じゃあないのですよね。橘純一が同じものの中から七咲逢だけの魅力を特別に感ずることが出来たからこそ、女子水泳部員があまたいるプールサイドで七咲のためだけに“口数の多い変態”になり切れた(27, 55),(27, 33)のでしょう。
花と代替不可能性の愛情を結びつけて説いたお話だと『星の王子さま』が思い浮かびますが、どこか通ずるところがあるかもしれません。
まあまあ、これはちょっとした言葉遊び程度のお話ですわね。

⑤ラーメン好き少女

アニメ第12話、綾波レイは肉が苦手なので「ニンニクラーメンチャーシュー抜き」を好んで食べているようです。
前回の「ファラオ」で散々悩んだ七咲の「ラーメン」がもし真剣に綾波レイを参照しているのだとすると結構スゴイ話かもしれませんね。
「造りもの」を徹底している綾波レイが自分の欲らしきものを見せるシーンは極端に少ないので、たったの1話でもかなり印象に残るよう設計されているのです。ひょっとすると七咲にもこれを当てはめてみると辻褄が合うかもしれません。つまりラーメンを食べる時には束の間家族や父性・母性の文脈から解放されて彼女自身の欲が表出すると。
結局は以前にも述べたような抑圧された食欲・肉欲の話に落ち着きそうですが、仮にキャラ同士全くの無関係だとしても興味深い符合であることには変わりありません。

ちなみに七咲は肉をガッツリ食べます。
タン塩を食べます。その代わり絢辻さんはあんまりお肉食べないようですがね。

ちょっとお話は変わるけれど七咲との関連の中で「温泉ペンギン」のペンペンが少し気になりますね。
元々は処分されそうになっていた実験動物で、現在は葛城ミサトの同居人という扱いなのですが……作中での立ち位置はかなりフワフワしています。ストーリーに絡むこともなければ、物語上何の役割も与えられていないいわばマスコットキャラなのです。
では次に考えるべきは演劇的表現としてペンペンがどう機能しているかということでしょう。これに関しては何となく意図が掴めるような気がしますね。
ペンギンながらビールを飲んだりお風呂を堪能したりとシリアスな世界観の中でコミカルな振る舞いをして場を和ませるのが彼の仕事でしょう。
更に言うなれば葛城ミサトの内面との繋がりが大きいキャラであることが察せられます。彼女自身が亡き父親へのコンプレックスから抑圧されて育った少女であって、ペンペンのように動物的に生きられるはずだった時間が失われているのです。要するにペンペンは彼女のインナーチャイルドであるとか、本能の代行者であると見てもよいかしらね。

あるいは第23話ではミサトさんが寂しさを紛らすためにペンペンと触れ合おうとしているさまが見受けられます。これは幼児に対するぬいぐるみの役割にも似たもので、ペンペンがいわば〈移行対象〉としての機能を果たしていたのではないかという結論に至ります。
何が言いたいかというと、幼少期にペンギンのマスコットに励まされながら水泳をしていた七咲のそれと重なるのですよ。初めて「家族」から隔てられた時間、スイミングスクール(外界)の中で「ペンギンの像」という〈移行対象〉を見つけたということですね。七咲の場合はやがて水中を自由に泳げるペンギンに憧れを抱くようになります。ペンギンと同一化したい七咲と言うと何だか奇妙な感じがいたしますが、「水に浸かりたい」願望の出発点がペンギンの像だとするとあながちあり得ないお話でもないでしょう。
話は戻って「温泉ペンギン」という単語をもう一度噛み締めてみると、やはりどこからともなく七咲っぽい香りが漂ってくるでしょう。

それから余談ついでにもう一つ、仮に本当に「綾波ブーム」を下地に七咲が造られたとして考えたとき、あまりに面白いシーンがあるのです。
それは七咲がロボットアニメ好きの先輩(男子)たちからアニメ研究会への勧誘を受けるイベント(23, 49)です。紗江ちゃんほどじゃあないですが、当時のアニメ研究会的な……いわゆる「おたく」たちのヒロインとして七咲逢が選ばれている理由を彼らの原体験的なロボットアニメの中に見出すとするならば「綾波レイ」は無視できないでしょう。
しかもあろうことか「ファラオを見に行こう」とか誘われていますからね。綾波─ラーメン仮説がここにも生きてくるのですよ。

このイベント、まるで『アマガミ』側からナナサキストを予見した先制パンチを打たれているようで私は好きですわ。

3.「考察」への疑い


作品同士の共通する部分が少し見えてきたところで、「それって実際どうなのか?」というお話も少しだけしておきましょう。
この項自体が大きな余談でございますから、ご興味ない方は飛ばしていただいて結構ですわ。

高山先生曰く『アマガミ』の企画書を書いたのは2006年、それから3年後の2009年にソフトが発売されます。対して『エヴァ』のTVシリーズは1995年から1996年にかけて放送されており、TVアニメ版総集編+αとして『シト新生』が1997年に公開、そして『Air/まごころを、君に』が同年の夏に公開されます。これらを皆「旧劇場版」と呼んでいるわけです。
一応それから2007年にリブート作品である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』のシリーズがスタートしますが、『アマガミ』発売前には4部作のうち『序』というほぼ旧作のリメイクにあたる部分のみ公開されておりました。したがって仮に『エヴァ』が『アマガミ』に影響したとしてもそれは「旧劇場版」までの内容でしょう。ですので今回の考察は「新劇場版」のお話まで及ぶことはございません。

先ほども触れましたが作品を企画した制作者側が「綾波レイブーム」を90年代当時の肌感覚として持っていたことは確かなようです。
『キミキス』の祇条深月が『カリオストロの城』のクラリスを元にしたキャラクターだと明かされた前例もございますから、全くあり得ないことでは無いのです。
複数のライターやデザイナーが連携して一つのキャラを造り出すためには既存の別作品からキャラの「元ネタ」を提示して共有するのって理に適っていますもの。
ただし高山先生にとって「綾波レイ」や『エヴァ』がさほど「刺さっていない」ことも十分に考えられます。高山先生は同じ庵野秀明作品でもどちらかと言えば『ふしぎの海のナディア』のしかもゲーム版を好んでプレイされていたご様子ですし、積極的に綾波レイらしきものを作中に登場させるか否かは微妙なところかもしれません。

と、このように作者の仕事を属人的に読み解こうとする試みは行き過ぎると危険でありますしテクストの本質から逸れることが多いのであくまで参考程度に留めておきましょう。
けれど大事なコンテクストまで排除してしまうのは少々勿体ないのでこっそりと生かしながら楽しみましょうか。

第一、作品の「考察」って何でしょう?
『エヴァ』はいわゆる「考察系アニメ」の走りとして有名な作品ですのでせっかくだからこれに託けて議論したいですわ。

これだけ「考察」してきた上で言うのも気が引けますが、「そもそもそんなのは作者(たち)にしか分からないことだろう」というままあるツッコミもまた見方によってはごもっともだと思いますの。
さらにそもそも論、作り手も受け手も言葉を扱う以上、共有し得ない「各々の概念」みたいなものを無理くり解釈しなければなりませんからね。
もしかしたらハナから全部ウソかもしれないし、作品を通じて明言されていない意図を分かり合おうなんて馬鹿馬鹿しく疑わしいものなのです。

……なんて、こういった考えにまつわる思考実験で有名な「箱の中のカブトムシ」というものがありますわね。

人類みんな“自分だけが見える箱”の中にそれぞれの「カブトムシ」を飼っていて、これについては誰とも分かち合えないのだと思ってるわけです。
けれど「絶対に他人と分かち合えないんだ!」と声高々に主張するためには、他の人たちの言う「カブトムシ」をみんな翻訳しては自分のものと逐一比べて「ほらね、あなたらのものとは違う!」と言わなければなりません。ですからこのとき「カブトムシ」は一部でも翻訳可能な「分かち合えるもの」になっちゃうんです。つまり「箱の中のカブトムシ」なんてあり得ないし厳密には「作者にしかわからない」ことも無いんですね。
私はこの捉え方が気に入っているので、他人が発した言葉や表現について「考察」する営みが面白いと思えるのです。学校の試験じゃございませんから「設問者」も介在しませんし⚪︎×で評価されることもありません。そしたら翻訳のチャンスは増えるほど楽しいでしょう。

長々何の話かって、この「カブトムシ」問題が『セイレン』第1話冒頭なんですけれどもね……と、今回は関係ないのでこのお話はこれ以上続けませんわ。

ちょっと余談が過ぎましたわね。『アマガミ』の考察に戻りましょうか。
そもそもなぜ私たちが七咲と綾波の共通項とか言い出すのかと言うと、互いにファンのポピュレーションが近似したところにあるからだと思うからです。90年代当時大人気だった綾波を恋愛SLGのヒロインとして柔らかくなるまで煮込んだものが七咲だと思えば当然の結果であります。
それじゃあどうしてそんな重大な役割を「5枠」に任せたのでしょう。本当ならばパッケージヒロインにしたって良いじゃないかと思うところでしょう。絢辻詞が二見瑛理子のポジションに落ち着くことだって出来たはずです。
これがまた今までに読み解いてきた「絢辻詞」像を辿っていくと面白いものが見えてくるのです。これから少しこの部分のお話をさせてくださいね。

4. 「絢辻・ツカサ・ラングレー」である可能性


パッケージヒロインこと絢辻詞は「惣流・アスカ・ラングレー」とかなり似た境遇にあると言って良いでしょう。アスカといえば「ツンデレ」的なキャラの代表格として読まれがちですが、それはどちらかと言えば「式波」の方ですな。
「惣流」の方、つまりTVシリーズならびに旧劇場版のアスカはというと「(母子)分離不安」「条件付き承認」「肥大した自己愛」からなる非常に悩める女の子なんですね。
ちょっとずつこの辺りを分解していくと「あら、絢辻詞かな?」と思えてきますから、お話を進めましょう。

エヴァンゲリオンに乗って使徒と戦うこと……他者のまなざしと対決することは、つまり社会にコミットすることでありましょう。ここから承認と疎外の中で揉まれて『アマガミ』で言うならばソエンになってしまうのですがね。
アスカは自分の身(個性)を犠牲にしてソエンになってまで何をしたかったのかと言えば、「母親に自分を見てほしかった」のですよ。作中で繰り返し「あたしをて!」という台詞が登場しますが、この辺りが「分離不安」的であるわけですね。どうしてこうなったのかと言うと、アスカの母親は夫を失った末に心を患ってしまいぬいぐるみこそが自分の娘だと思い込んで可愛がるようになってしまったのです。
これに酷くショックを受けたアスカはゲンドウ──すなわち父なるもの──に課された「エヴァに乗って成功する」という「条件付き承認」の呪いにかけられてしまったのです。
言うなればゲンドウらが仕組んだ「父性」の文脈に適合することですから、父権制社会の娘となることで承認を得ようとしていた絢辻詞(あたし)の行動原理とよく似ているのです。ここで根付いた過剰なエリート意識と歪に肥大化した自己愛の表現が絢辻詞の「ウラガワ」とよく似ているわけですね。
絢辻詞の中にある「分離不安」的な要素が表出するのは梅原との約束を優先させたときの反応(40,42)などでしょうか。世のアヤツジストにとっては自明の部分でしょうから省略させていただきますわ。

さて、アスカの母親の可愛がっている「ぬいぐるみ」が絢辻詞に置き換えたとき何にあたるかということを考えなければなりませんわ。
アスカからすると「母親にとってのもう1人の娘」でしょうから、まるで忌まわしい姉妹のような関係性にある「ぬいぐるみ」……ひょっとすると絢辻縁かしら。

『うさぎとかめ』の「うさぎ」に当たるのが姉の絢辻縁だということが分かるのですが、前回の記事の中で申した通り絢辻詞の部屋にはベッドの上にうさぎのぬいぐるみが置いてあるのですね。
絢辻縁という人間は存在しなかったんだ……その正体は絢辻詞が持っているうさぎのぬいぐるみだったんだあ……」というのが始まってしまうとオカルトですが、承認にまつわる事物を関係性だけ抽出してみると両キャラに大した差異はないことが分かるというお話です。
『アマガミ』はまろやか仕立てなので家族の自死などは描きませんが、努力してエヴァパイロットになってみても結局のところ報われなかった(家族からの承認を得られなかった)少女という点では、その顛末まで境遇が似ていますでしょう。
強いて言うなら絢辻家の場合は実の父親が幅を利かせているので母性愛への行動化というテーマとして受け取りづらいのは否めないですね。この辺りは棚町薫くんが相補的に要素を汲んでくれるかもしれません。好意に値するよ。

「エヴァに乗る」ということにはシンジくんだけじゃなくって、アスカも同じように葛藤しているのですね。彼女だって常に「自分の中にいるアスカ」と「他者の中にいるアスカ」で問答しております。何を隠そうTVアニメ版25,26話というのがいわば伝説的な自問自答の回なのです。「自分の中にいる自分」は幼い頃の自分自身の形をとっており、パイプ椅子に座っている「他者の中にいる自分」に語りかけてくるのでした。
これを絢辻詞に置き換えれば「わたし」「私/あたし」との問答と言えます。そう考えると『アマガミ』でも見たような構図ですね。お堅い言葉で言えば「対他存在」や「対自存在」のお話であり、やっぱり「まなざし」が彼女らをずっと苦しめていたんですね。
TVアニメ第24話冒頭、幼少期のアスカがいくつもの扉を開けて母親がいる奥へ奥へと走っていくシーンがありますが、これが絢辻詞の言う「扉」のイメージとも重なります。心の絶対不可侵領域を築いてしまった若者たちの扉の奥にいるインナーチャイルドを見ることができるかが「アダルトチルドレン」問題のカギであり『エヴァ』の提起、『アマガミ』の答えであるわけです。

5. おわりに


今回は『エヴァ』と『アマガミ』を並べて語ってきました。『アマガミ』はともかく『エヴァ』に関しては新旧ともに2周と部分的に3周見た程度ですし、むしろ設定資料や制作者のインタビューなどにまるで触れていないのでアレコレ語れるほど詳しくはございません。巷でどんな「考察」が繰り広げられているのかも想像がつかないので不安ではありますが、薄々感じていたところを言葉にできて非常に清々しい気持ちであります。
半ばこのためにずらずらと語ってきたような節もありますね。やはりコンテクストをある程度作った上でないと「アマガミ≒エヴァ説」を唱えた瞬間に如何わしい陰謀論に片足を突っ込んでしまいますからね。
けれどまだ「ギリギリ如何わしくない陰謀論」の体裁ですから、駅前やレストランなどで大声で唱えたりせぬようお願いいたしますわ。

さて、途中で予告的にお話をねじ込みましたが、次回投稿するとしたらば『アマガミ』を踏まえた上で『セイレン』が何だったのかというお話を出来ればと思います。
「まなざし」に対して「声」のお話だったり、やっぱり「シカ」との関係性のお話だったり『アマガミ』の先の世界に向けて出航したお話だったような気がいたしますのでご興味あればこれに懲りずにご覧くださいな。

ついこの間『アマガミ』考察が済んでしまったようなことを言いましたが、ウソでしたね。まだまだアマガミについて知りたい、考えたいという意欲が湧きに湧いておりますゆえ、今後もちょっとずつ記事を投稿して行くこととしますわ。

ぜひお気づきのことがあればコメントをしていただけると幸いですし、あるいは皆さま自身の「考察」を発信する機会を持っていただけたらば何より嬉しく思います。

男子A「では、君たちの豊富な知識はアニメ研究会で活かすという事で……」

七咲逢 ナカヨシ(23, 49)

おしまい。

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