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修験者・市兵衞さんの人となり

天保八年十月二十六日のこと、十七歳の長男秀司は、母親みきに伴われて麦蒔の畑仕事に出た折、急に左足に痛みを覚え、駒ざらえを杖にして辛うじて家に辿りついた。早速、医者に診せた処、薄荷薬などを用いて手当ての限りを尽してくれたが、一向に痛みは治まらない。そこで、人の勧めるままに、近在に聞えた修験者、長瀧村の市兵衞に使者を出したが、あいにく市兵衞は仁興村へ行って不在であった。

天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』
(平成28年9月,天理教道友社,p.2)

ここで登場する市兵衞さんという修験者について詳しくわかる面白い文献があるので紹介したい。

此の市兵衞と云ふのは、庄屋敷村の東北に當り、二里程隔つて居る(長瀧村現今の福住村長瀧)の住人で、性を中野と云ひ、代々、此の村の庄屋を勤め、本名を市三郎と称し、修験者十二先達と云はれた中の一人で、此の人は明治三年の舊七月十八日の夜十時頃、盆踊りから歸るなり、ポカリと死にました。時に七十九歳でありました。十八貫五百もあるといふ大兵な男で、法號を「權大僧都阿闍梨、理性聖譽明賢」と称し、紫の衣を着けて居たと云ひますから、中々豪い山伏であつたに相違ありません。通称を「明賢さん」と云つて、極めて固くろしい性格でありましたので、婦人などは恐ろしがつたさうであります。庭造りが道楽で、村の為めに山林へ木を植ゑたり、農事にも非常に精を出しました。生活も富裕でありましたので、其の宅は「毛見」と云つて、稲作の見廻りに來る役人の定宿になつて居りました。生來が信神好きで、年に二三度は大峰山へ立籠りました。次第に修業を積む中、いつとはなしに法力を得たのでありませう。祈願祈祷何一つとして叶はぬ事なく、此道の先達として大和、伊賀など、此界隈十里四方で名声を轟かした山伏でありました。

奥谷文智『天理教祖中山美支子實傳 附飯降伊蔵翁』
(昭和11年1月,木下眞進堂,p.103-104)

教内の学校に在学していた頃、市兵衞さんについて調べてこいと宿題を出されて、すでに知っていた上記の参考文献を用いて提出した。

翌日、“教義について詳しい”とされる先生から叱られた。「こんな信憑性のない文献を用いるとは何事だ」と。

確かに、これは教会本部の権威の下、発行されたものではない。上記の記載だって信憑性があるかわからない。すべてが史実ではないかもしれない。だから先生という立場上、こうして生徒の僕を仕込まねばならなかったのだろう。

でも僕は言ってやりたかった。

奥谷さん(著者)だってこの一冊を書くにあたって血の滲むような努力をされたに違いない。あたれるだけの史料にあたり、調べうる限りを尽したに違いない。市兵衞さんの記述にしても、なんの本も参考にすることなく、誰からも情報を集めずして適当に書いてるなんて思えない。それがただの噂程度のものであったとしても火のない所に煙なんか立つもんか。

この文章を書いているとき、そんなこともあったなあと記憶がフラッシュバックした。すこし微笑ましくもある思い出にひたりながら筆をおくことにしたい。

あの時、僕の心の中でうずまいた違和感と、かけがえのない資料への想いが、「ふくのたのしみ」というスタンスのnoteを書こうとした理由なのかもしれない。

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