天竜川の舟運

 流れが急で岩場や荒瀬など難所の多い天竜川では、中世まで丸太を組んだ筏船が主流でしたが、慶長十二年(1607)、徳川家康は「京の三長者」に数えられた豪商角倉了以(すみのくら りょうい)に信州から掛塚まで天竜川の舟路開発を命じました。


 了以の手代であった角倉屋利右衛門が元和八年(1622)までに概ね工事を完了させ、了以が京都に開削した運河、高瀬川で使われていた高瀬舟(当地では「角倉船」と呼ばれていましたが、御朱印船として海上貿易に使用され数百名の船員が乗った大型の角倉船とは別物で、船頭四人、米二十~五十表ほどを積載する小型の川船)を中部村で試作しています。


 延宝五年(1677)には、伊砂村から瀬尻村までの十二ヶ村に五十八艘の角倉船があり、天和年間(1681-)頃から角倉船による上下交通が本格化し、北遠の村々から薪炭・茶・楮などを川下げし、その代金で池田・掛塚方面から米・麦・塩などを調達していました。


遠州空っ風は帆掛け船で天竜川を遡る(米なら下り五十表、上り二十五表であったと云います)追い風となりましたが、風の無いときは岸から綱で曳いて上っていたようです。


 角倉船は西渡より南に用いられ、正徳四年(1714)には領家村、若身平といった気田川流域の村でも所有していた記録があり、天保年間(1830-)にピークを迎えています。


 北遠諸村は稲作に適した地域が少なく、年貢米を納める代わりに林産物や茶、楮などを売って税を金納し、米や塩などを購入する必要があったため、天竜川水系の舟運は地域経済を支える大動脈として発達しました。


 天竜川流域の茶は二俣の茶問屋が買い付け、金谷・森町城下村と共に「遠州茶」と呼ばれ、天竜川を下り掛塚を経て船で江戸に売却されていた安政年間(1855-)の記録が残っています。


 舟運により、北遠諸村は商業が盛んになり、明治以降、平野部に先んじて近代化が進む下地が作られていきました。


 

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