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昭和30年代少年の浜松町幕末・大正風景 【東京は芝神明、浜松町あたりのものがたり】

アーネスト・サトウ。幕末の日本に滞在し、西郷隆盛や伊藤博文、勝海舟にも近しく接していた、英国の外交官。幕末の日本を異人の目で捉えた貴重な著書を残している。彼の著書のなかに、「芝神明」が登場する。

ーー神明前は、私たちが好んでよく行った盛り場のひとつで、安価な刀剣、磁器、着色の版画、絵草紙、小説などは、みなここで買うことができた。(『一外交官の見た明治維新』岩波文庫より)ーー

幕末のころの芝神明は、江戸有数の盛り場であり、なかでも絵草紙屋が多くあることが特色であったとのこと。

ーー「絵は芝神明」とは、「え!」という応答に対して「え(絵)は神明前」とはぐらかし、茶化す言葉遊びである。浮世絵を買うなら神明前、神明前こそ浮世絵商売の中心地であるという世の合意が前提となっている。幕末には、他にないほど絵草紙屋が密集していたのであろう。ーー
(東京都江戸東京博物館調査報告書第27集『芝地域を考える』 「絵は神明前 芝の絵草紙屋」鈴木俊幸より)

神明前で取り扱っているのは、サトウの文章にある通り、絵草紙や小説だけでない。小間物や子ども用の玩具も多く扱っており、「(芝神明前の)三嶋町へ子どもをつれては一足も動けぬ」とまで言われるぐらいで、江戸でもこういう賑わいは、上野不忍池の端と芝神明前だけとまで当時の人は言っていたということだ。気取ったり、かしこまったりする賑わいというよりももっと庶民的で猥雑な賑わいのほどが思い知らされるようだ。

この賑わいは、芝神明神社の正面前というよりは、今の浜松町1丁目の交差点から南側にあった、三嶋町、宇田川町といわれるあたりだった。

地図 江戸嘉政

       【嘉永1848~1854期の浜松町
        (芝愛宕下絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション) 】

旧東海道の第1京浜国道の、現在の浜松町1丁目の交差点から大門の交差点間には、宇田川町、神明町、浜松町という3つの町割りがあり、旧東海道が町の真ん中を南北に走っていた。旧東海道は、増上寺の参道を越えると金杉橋までは、浜松町二丁目、三丁目、四丁目を突っ切っていた。

特に絵草紙屋が盛んだった三嶋町は、宇田川町と神明町の西隣にあった。今の芝神明商店街の通りとかさなるだろう。

尾張藩士高力種信(猿猴庵)が文政11年(1828)に絵入りで記録した『猿猴庵江戸循覧記』のなかに、「芝三嶋町」という記事があり、『芝地域を考える』の冒頭の画集で見ることができる。

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色鮮やかな浮世絵が飾られた店頭、といっても縁側を広くしたような店構えで、道行く人がちらちらと浮世絵を眺めたり、そこにちょっと腰をおろして店のなかを覗いている様子がよくわかる。ここで面白いのは、売り子がみな小ぎれいに着飾った若い娘だったことが描かれているようすで、これは、三島町の草紙屋の特徴だったらしい。ちょいと腰かけて娘たちと話のひとつもしたくなるだろう。店の都合としては、今でいうところのクレーマーみたいな面倒なお客も娘相手ではそんなに息まくこともなく、ことは治まるということだったらしい

先に書いたように、宇田川町、神明町を突き抜けて旧東海道が走っていたので、品川宿がちかくなったこのあたりは、江戸を離れるものにとっては、江戸土産を購う最後の場所ともいえ、どうももともとは、土産物屋的なところから発展していった要因もあるようだ。

さて、御一新、大震災、大空襲と大きな変化を遂げてきた、三島町、宇田川町の街並みだが、大震災前の様子を証言している文章があった。

ーーこの(芝神明前)通り講談や時代小説によく登場する。日本橋界隈から西では屈指の商店街だったろう。絵草紙屋が多かったといわれるているが、大正初期にはまだ二軒残っていた。
一軒は中上屋という店で、店頭の欄干の位置に、日露戦争の橘大隊長奮戦の錦絵などを横一列に飾っていた。八字髭を生やした二枚目の西郷隆盛が、これまた刀を振りかざして間軍兵士と斬り結んでいる西南戦争のなどもあった。すくなくとも春信・広重などは、見かけなかった。ーー(大林清『明治っ子雑記帳』青蛙房平成2年)

「春信・広重などは、見かけなかった」というのは、いかにも芝神明の江戸の盛り場の猥雑な匂いを残していて、思わず、ざまァ、見ろとでも言いたくなってしまう。

江戸期の有名書肆だった田村屋が、大正初期には、宇田川町にはまだあった。

ーー江戸時代の太物屋や薬種商と同じ作りといったらいいのだろうか、間口いっぱいに奥行きの浅い土間があり、すぐ座敷になっていて奥に戸棚がある。
店員がその座敷にかしこまっていて、何々の本というと、やおら奥の戸棚からそれを取り出してくるのである。ーー(大林清『明治っ子雑記帳』青蛙房平成2年)

大正時代の浜松町の地図を見ていると江戸時代から続く町名が残っており、懐かしく感じる。言うまでもなく、僕が親しんだ浜松町は昭和30年代であり、ここにある町名はひとつとして使用した覚えはないが、昭和30年代には、まだ、そこを行き来していた人たちの気配が残っていたような気がする。


そこで、大正時代の浜松町で少年期を送った作家の回想記である『明治っ子雑記帳』から、江戸期と昭和とのあいだにある大正期の浜松町でこの懐かしさのありようを探ってみることにする。

地図 大正

                        【大正期の浜松町】

『明治っ子雑記帳』の著者の大林清は、明治42年(1908)に生まれ、平成11年(1999)に没した。小説家、劇作家で、4回直木賞候補となるも落選している。第4代作家クラブ会長、日本放送作家組合の理事長を創立以来務め、国から勲章を拝受している。

Wikipediaには、著書が山のように並んでいるが、浅学の私には、とても太刀打ちできなく、ひとつも読んだことがない。本書により、著者を知ったという体たらくだ。

出生地は、芝新銭座町で、同じ町内にある市立神明尋常小学校に通い、日比谷中学(旧制)から慶應義塾大学仏文科に入学し、長谷川伸の門に入り、弟子となり、作家になった。

著者が少年期に過ごした芝新銭座町は、浜松町1丁目と東新橋2丁目の南側の境界線をまたいだあたりにあった。大正3年(1914)に創立された神明尋常小学校は、戦後は区立神明小学校となり、平成7年(1994)に閉校となった。

僕は、区立神明小学校に昭和36年(1961)に入学し、同42年(1967)に卒業したので、大林からは、半世紀ほどの後輩となる。だが、先に言ってしまえば、本書に書かれている芝神明、浜松町の雰囲気は、僕の知っている浜松町と同じ匂いがする。令和の浜松町には消えてしまった匂いだと思うがどうなんだろう。

ーー新銭座海岸は、昔から「お浜」と呼ばれていた。そのお浜へ出るには、(国鉄の)東海道線のガードをくぐらねばなければならない。ーー

ーーガードを抜けるともう海が見えた。波打ち際まで100メートルあったかどうか―まさしく波打ち際なのである。どういうわけか自然石の石段になった道路の突端に東京湾の波が打ち寄せ、右側は芝離宮に続く松原の石垣が突出し、左前は運河を挟んで浜離宮、正面には晴れた日、房総半島がすぐそこに見えた。ーー

新銭座海岸という地名は初めて聞いたが、その次に引用した文章を読むと、まさにそこは東京湾に面した海岸であったことがよくわかる。そして、浜松町という町が時には潮の香りをただよわす町であったことも。

「右側は芝離宮に続く松原の石垣が突出し」た場所、ここは地図によると浜崎町と呼ばれていた地域で、名前の通り、浜の先を埋め立ててできた土地ということになろう。

僕は、昭和30年代に、ここに住んでいた。

子どもの頃に遊んでいると、足でお金みたいなものを蹴とばした感覚を覚え、地面を見ると、見たことのないお金(通貨)があり、さっそく、母親に見せたものの、「寛永通宝」と書かれた江戸時代のお金であることを教えられ、何だ使えないのかとがっかりしたことがある。今では、信じられないが、寛永通宝を拾ったことは、1回や2回どころか、何度もあり、しまいには寛永通宝とわかると拾わなくなってしまった。子どもなりに、この土地が江戸時代からあったことを知った出来事だった。

大正時代の地図では、浜崎町の東京湾に面している海岸線は、芝離宮庭園にそってあり、現在の首都高が通るあたりが、海岸線であったことがわかる。

大正12年(1923)に関東大震災があり、陸上の交通網が壊滅し、大規模な港をもたなかった東京では、救援活動に苦労し、これを教訓として、東京港での大規模開発が行われ、昭和8年(1933)に竹芝ふ頭が整備、翌年に竹芝桟橋が完成している。昭和5年(1930)に国鉄東海道本線貨物支線汐留-竹芝ふ頭を結ぶ芝浦線が開通している。(Wikipedia及び竹芝エリアマネイジメントより)
この芝浦線は、築地市場から、汐留を経由し、浜離宮にそって、竹芝に出て、日の出ふ頭から芝浦ふ頭まで走っていた貨物線。一般には、馴染みはないが、新しく埋め立ててできた海岸線に沿って走っていた鉄道で、昭和30年代にも稼働しており、都立芝商業学校(昭和16年に芝公園4号地から現在地へ移転)の北側を走り、沿線の内側には、住宅が並んでいる地区があり、そこに、芝海岸通り1丁目の町会があった。したがって、お祭になると、海岸地区に住んでいる昭和30年代の子どもたちは、その町会にゆき、神輿を担いだり、山車を曳いたりしながら、お菓子を貰っていた。芝大神宮へのお宮参りの神輿もこの町会から出ていた。

明治末期から隅田川口改良工事がはじまり、そのときに浚渫された土砂を使って芝浦までふくめた広い範囲の海岸地区の埋め立てが始まり、昭和9年の竹芝桟橋が完成し、昭和11年(1936)に芝浦海岸埋立地一帯の町域統廃合が実施され、浜崎町・竹芝町に芝浜松町の一部などを統合して芝区海岸通一丁目が成立する。この地域が住所名変更を何回か繰り返すが、現在の港区海岸1丁目と重なる。

芝離宮は、延宝6年(1678)に芝金杉を幕府より拝領した老中大久保忠朝の庭園として始まり、幕末には紀州藩が拝領し、維新後は有栖川宮熾仁親王邸となり、その後、皇室が買い上げ、大正13年(1954)昭和天皇のご成婚を記念して、東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として開園した。昭和39年の東海道新幹線の敷設に伴い、西側の一部が削られた以外は、当時のままといえる。皇室と縁が深いために、園の管理人は代々皇室勤務者が退職後に務めていたために、たいへん威張っていたという話が地元に伝わっている。

大正時代に濱崎町と言われた地域は、江戸期は葦の茂った洲で、幕末には鉄砲習練場として使用され、維新後は海軍省用地になったらしい。戦後は、国鉄と郵政省が管理しており、国鉄の工場、技術研究所、線路沿いには、新幹線のコントロールセンターが入っていた建物や郵政省の大型倉庫や官舎があった。

昭和30年代に、海岸1丁目地区の住人にとっての毎年の一大騒動は、台風の到来であった。台風が高潮を連れてくると一気に海水が浜松町駅まで押し寄せることがあったらしい。

台風の東京湾への来襲と高潮が重なる予報が出ると住民たちは、1階にある重要な荷物を2階以上にあげ、畳を上げる作業へと取り掛かる。年中行事に近いこととはいえ、たいへんだった。

官舎の1階に住んでいたわが家は、2階以上の住居に荷物とともに一夜非難することとなる、子どもだったので、よその家へ泊るのは遠足みたいで楽しかったが、家具などの移動は面白いとも言えなくなってしまい、海岸から遠い、武蔵野にある母の実家が羨ましくなったものだ。

台風がくるごとによく聞いた話は、高潮が押し寄せて、鉄道の下を潜るようにあった車道に面していた浜松駅の改札口(当時は、北口のみ)は、海水に沈むことがこれまでにあったということだった。

芝離宮庭園の池も海水とつながっていたといわれ、その池よりも低い位置にある、北側改札口は、夏の夕方のひとしきりの豪雨でも足首ぐらいまでは、水があふれてくることがよくあったので、この話は、それなりの現実味を帯びて話されていた。一方で、山手線の内側の地域まで海水がいったという話は聞いたことがなかった。

ーーJR松町駅北側ガード下は、区内で最も標高の低い地点とされており、0.08mの値が得られている。その北方約250mに位置する旧港区立神明小学校付近(播磨赤他藩家屋跡遺跡)の計測値が標高1.7mであったことから、旧東海道に当たる第一京浜国道を東に過ぎた辺りから海に向かって急激に落ち込む地形であったことを窺うことができる。」ーー
(東京都江戸東京博物館調査報告書第27集芝地域を考える 「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)

上記にある通り、JR浜松町駅北側ガード下は、区内でいちばんの低地であり、雨水の増水により地下水が噴出してくるのも納得できる。ガード下の標高は、「マイナス0.08m」とあるが実感的には、もっとあるような感じだが、旧神明小学校あたりからの標高差は約2mなので、それくらいだと実感的だ。ガード上にある鉄道線が地上よりも高いところを走っているんで、より低く感じるのかもしれない。

ーーそれまでの(大正時代から始まる埋め立て前の)汀線は、江戸のまちづくりの進展に伴い東進あるいは南進し、17世紀中葉には第一京浜国道とJRの最も陸側の線路との間に存在した。ーー(「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)

台風とのときの高潮も江戸時代の海岸線までは到達したということになる。

浜松町地域の概ねの地形は、

ーー(増上寺の)三門(=三解脱門)前に本堂を背にして佇み、前方のJR浜松町駅方面を遠望すると、全体的に下っていることに気付く。より詳しく述べる 。と、三門の石段を降りた辺りから芝増上寺前の松原の手前までは概ね平坦であるが、松原付近、芝増上寺の正門に当たる大門付近で傾斜の度合いを変えながら下り、さらに現在の大門交差点を少し越えた辺りからJR浜松町駅北側のガード下に向かって一挙に下っていく。ーー(「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)

この何度も引用している地形からの論考(「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)は、たいへん興味深くもっと引用したいところがたくさんあるのだが、ここでの話は、昭和30年代の少年が浜松町で暮らした感覚に沿ってゆきたいので、その感覚に触れた要点を記す。

ーー(江戸時代の増上寺の)境内を俯瞰すると、本堂等寺院本体が展開する空間、徳川将軍家墓所が造営されている空間と、子院・学寮が設けられた空間の間には、厳然とした区別が存在したことも予測される。適切な喩えとはいえないかも知れないが、本堂等寺院本体及び徳川将軍家墓所のある空間を舞台、子院・学寮の在る空間を客席になぞらえれば、この空間を劇場空間に見立てることもあながち不可能ではないように思われる。松原は緞帳の役目を負い、台地(段丘)を舞台の背景とする見立てである。徳川将軍墓は舞台の最も高所に居並ぶ役者といったところであろうか。ーー(「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)

今世紀になってしばらくしたころの大晦日、テレビで恒例の「ゆく年くる年」がはじまると群衆でいっぱい、しかもその群衆たちが年明けに向かって何やらカメラに向かって叫んでいるもりあがいる様子のどこぞやの境内が映された。そこが、増上寺と知った時の衝撃と言ったら、身を乗り出すというか、酔っ払いながら立ち上がってしまったというありさまだった。

紅白歌合戦が終わってからの増上寺の初詣は、少年時代から青年期にかけて経験しているが、こんなひとにあふれた増上寺をみたのは初めてだった。

昭和の中ごろの大晦日、零時に近くなると、竹芝桟橋の方からは、船の汽笛が聞こえてくる。それを合図にしたように、年明けを前にひっそりと夜の闇に隠れていた町のあちこちから少し浮かれたようすのひとたちが三々五々でてきて、背中丸めてぞろぞろと神明さん(芝神明)と増上寺の鐘撞にむかったものだった。ふだんはあまり顔もあわせない町の知り合い、もう会わなくなった、小学校の同級生や先輩、新婚を迎えたという噂の町内の暴れん棒は、懐手の着物姿でよこには新妻が寄り添い、辛気臭い老夫婦もそのあとに続いている。そんなかをニコニコと挨拶をかわしながら神社とお寺に歩んでゆく。神社も増上寺も賑わいと言ったところで、お参りの長い列をつくるまでもなく、増上寺にしたところで、除夜の鐘の行列はあるものの広い境内には、露店もなく、あちこちのくらやみで知り合い同士が溜まりをつくっているばかり。

1980年に近いころだったか、大学の友人たちと語らって、そのうちの何人かの地元である泉岳寺に大晦日の夜中に集まったものの大きな焚火があるぐらいでぱっとせず、増上寺に案内したことがあった。僕も久しぶりの増上寺だったが、そこでテントをはって露天商がでているのにびっくりしたものだ。しかし、テントにはいってみると何のことはない、地元のおばさんが焼きそばなどをすまなそうに調理して、売っているところだった。このすまなそうな風情がいかにも浜松町風で、久しぶりに浜松町の人情に触れた感じがしたことを覚えている。

昭和30年代から40年代くらいまで、大門の正門から増上寺の三解脱門までの道の両脇には、お寺がびっしりと並んでいたイメージだ。少なくとも、世俗とは、少し離れた雰囲気がそこには漂っており、その先に高い松が何本もそびえ立っている松原があり、三解脱門をくぐると広い境内の向こうにだいぶくたびれた本堂があった。雨が降ると三解脱門から本堂までの土がぬかるみ、転々とした敷石を踏み外さないように歩いたものだ。

くたびれたイメージは、本堂自体が老朽化していたこともあったが、もうひとつは少年時代の記憶だった。

ある日、母親から土曜日に増上寺さんにゆくとマンガ本を貰えるという話を聞いた。増上寺さんに子どもたちがこないので、マンガ本をあげるということで子どもたちをあつめてお坊さんがありがたいお話をするという。マンガ本をくれるならばとさっそく友だち数人と出かけた。マンガ本に吸い寄せられた欲の深い浅はかな少年たちは、畳敷きの本堂に集められ、50人ほどはいた子どもたちにお坊さんがお話を始めた。講話とでもいうのだろうが、ともかく詰まらなかった。マンガ本を貰えるということがあるので、その頃の僕たちにしては、体をつつきあって遊んではいたものの静かに忍耐強くお話をお聞きした。そして、待望のマンガ本。ところが、これが実にくたびれた少年漫画誌であり、縁日で古い少年誌を買うのが楽しみだった僕たちにしても、がっかりするような代物だった。当然のことながら、増上寺の子供向けの会には二度と行かなかった。その頃の増上寺の本堂は、改修前であり、どこかヨレヨレ感が漂っていたので、こんな出来事もあり、くたびれたイメージが付加されてしまったのかもしれない。

この体験の背景には、増上寺が子どもが馴染んでゆけるようなところではなく、どことなく畏れ多くコワい感じがしたところだったということもある。大門の交差点から正門までは普段通りの浜松町の町だが、ここをくぐると両脇にお寺が並ぶ薄暗い雰囲気になり、さらに三解脱門から先は、かなり敷居が高く、容易には近寄れないという感じだった。

先に引用した文章で行くと増上寺の客席に入るだけでも場違い感があったのに、壇上までゆくのは、新年のうかれたときでもないとという感じなのだった。増上寺のくたびれたイメージには、老獪な存在への興味と忌避という少年の複雑な心持があったのかもしれない。

そういう近寄りがたいイメージ、くたびれたイメージからすれば、テレビの画面越しに眺めた大晦日の境内の様子は異様だった。東京タワーも昔と違って、明るく煌々としているし、増上寺の境内だけでなく、浜松町という町の方々にあった暗闇がなくなってしまっていた。

人びとが身を捩るようにして喚起している映像を見て思ったことは、もうひとつあった。芝神明神社や増上寺という存在がもっていた潜在的なパワーの大きさだった。僕が親しんでいたころの芝神明社や増上寺は、まるで大きな眠りについていて、新世紀とともに、再び覚醒し、人びとの欲や感情を集める求心力を発揮しだしいることへの素朴な畏敬の念とでも言おうか。生意気な言い方をすれば、芝神明社や増上寺という人間界の尺度とは趣きの違う存在を見直したのだった。

さて、先の論考「地形から考える芝公園と芝増上寺」から、もうひとつ引用させていただきたい。

ーー筆者は、芝増上寺と芝神明とは空間観において異なるとする立場にある。ーー(「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)

ーー芝増上寺内に設けられた大教院神殿に預けてあった「四神御霊代」を、神殿焼失に際して芝大神宮に遷したものの、この地が猥雑な空間と隣り合っていることから、芝東照宮へ預けるというもので、芝増上寺(芝東照宮は神仏分離令までは、芝増上寺境内の一画)と、芝大神宮(芝神明)及び周辺域との空間観の相異を疑い知ることができよう。ーー(「地形から考える芝公園と芝増上寺」高山優)

増上寺の大門の内と外では、雰囲気のありようが、少年の感覚からも違っていたことを少年期の記憶から述べてきたので、ここに引用した筆者の空間感に勝手ながらそっと賛同するしだいだ。

浜松町の町の生のエネルギーの露出はもとより、三島町、宮本町、宇田川町などの旧町名がおどるあたりにみられた。

なかでも、芝神明宮の境内には、芝居小屋が数座あり、多くのひとを魅せつける娯楽が軒を並べ、七軒町には、水茶屋、楊弓場、陰間茶屋がならび、猥雑なエネルギーを放っていた。現代で言えば、歌舞伎町に近いイメージか。

浜松町にあったこの猥雑なエネルギーを別の角度から見てみよう。『東京都江戸東京博物館調査報告書第27集芝地域を考える 「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら』を参考にさせていただく。

ーー宮地芝居とは、寺社境内で行われた芝居の呼び名である。宮芝居とも言う。官許の大芝居以外に歌舞伎を上演する場の一つとして存在した。ーー

ーー江戸の宮地芝居は、大芝居とは異なる立地の利便性と安価な観劇料で人々を楽しませた。ーー(「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら)

ーー宮地芝居で有名になるのは、芝神明、湯島天神、市谷八幡の芝居である。ーー(「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら)

宮地芝居ということをまったく知らなかったので、この論考でも理解が追い付かず、宮地芝居とはなにかということと江戸期には、芝神明で盛んであったことを引用した。

芝神明には、笠屋三勝や江戸七太夫などの複数の座が存在したことがわかっているそうだ。なかでも、江戸七太夫の座の記録が残っており、江戸期を通じて幕末に至るまで、「幾度も興行に挫折し、興行再会をめぐって幕僚とのせめぎ合いを経ながら存在したことがわかる。」(「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら)

さて、宮地芝居が行われていた芝神明の境内の賑わいについて、十方庵敬順の『優暦雑記』(文政元年跋)によれば、「宮地芝居に加え、茶店・吹矢・軽業・曲持・居合抜き・独楽回し・白鼠の見世物・猿芝居・豆蔵といった娯楽が記載されている。」(「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら)

さすがに、わからないものがたくさんある。拾ってゆくと、
「吹矢」とは、「筒に矢を入れ勢いよく吹き込んで矢を飛ばし、からくり的に命中させると人形が飛び出してくるものである。(「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら)
「曲持」とは、「囃子曲持というのは、米俵・酒樽・臼などの諸道具を使用し、祭りの囃子のリズムに乗って、力技の妙技を見せるというものである。」(wikipedia)
「豆蔵」とは「江戸時代、手品・曲芸やこっけいな物まねなどをして銭を乞うた大道芸人のこと。」(weblio辞書)

芝神明の宮地芝居を描いた浮世絵では、大した賑わいで、この人々の人いきれのなかにしばし遊んでみたくなる。当時の人も同じ気持ちで出かけていったのだろう。

七軒町にあった、水茶屋、楊弓場、陰間茶屋については、昭和30年代まで残っていた、芝神明の花街の源流となるところだが、不見識なので、別稿に譲る。

花街としての一例をあげれば、芝神明といえば「め組の喧嘩」と言われる芝居のなかでも、
ーー芝神明にも陰間茶屋が会ったことは有名で、・・・(「め組の喧嘩」での)芝居の出方が、「今江戸中で子供屋流行、湯島よし町八丁堀と神明前の七軒町だが、この四か所の其うちでも、芝が一番美しい」と自慢するのである。ーー(「芝神明と宮地芝居」佐藤かつら)


昭和30年代の子どもにとって神明さんといえば、江戸の昔から続く例大祭であり、2年に1回の生姜祭本祭り、夏場の毎月7の日にあった縁日となる。

神明さんの氏子は、浜松町のみならず、遠くは麻布十番、三田、西新橋と大変広く、例大祭の一日にお宮参りで各町からの神輿が揃うが、境内には、入りきれずに、近くのプリンスホテルの駐車場などを借りていた。海岸1丁目町会の神輿は、六畳間に入るぐらいの小ぶりの作りだったが、例大祭の神輿綜揃いでは、その数倍の神輿が何基もあり、度肝を抜かれた。それだけの大きさになると屈強な大人が何十人で担ぎ、神輿の上には、粋な刺青の体格の良い男がふたりばかりのっているありさまだった。そういう大きな神輿が動き出すときの人と神輿が一体化し、静から動に移る流れは雄大にさえ思われた。

夏場に盛んになる、毎月7の日の縁日は、露店や屋台が第一京浜国道間際にまででて、夜の参道にランプのような電気灯りが連なり、浴衣姿の人も行き来する夜景は今でも目に焼き付いている。僕の目当ては、少年漫画雑誌の古本探しで、路上に敷いた布かベニヤ板の上に散らばしてざっくりと重なっておいてある少年雑誌の山からお好みの面白そうなものをしゃがみこんで掘り出し探し出すのがとても楽しい時間だった。

祭りや縁日以外で、神明さんの参道にゆくことはめったになかったが、たまに訪れると商店街をこえたあたりから、三味線の音色が聞こえてくるような風情だった。まだ、芸者さんも大勢おり、料亭もあった。したがって、例大祭の真夜中に行われる女神輿の宮入は、粋な姉さんたちが男衣装してのものだった。

今でも、女神輿は行われているらしいが、夜の光の中なかでのあの艶っけたっぷりの神輿ではないだろう。

大正時代の神明前通りはどうだったんだろう。

ーーそもそも神明前通りというのは通称で、西側を七軒町・宮本町・三嶋町、東側は神明町・宇田川町が占めているのであった。ーー

ということで、第1京浜国道と平行に神明神社側にある、現在の芝神明商店街と同じ地域になる。
ーー大正10年前後と作製と思われる(図面がある)が、洋品屋、人形店、小間物屋、玩具店、ガラス屋、瀬戸物屋、漬物屋、呉服屋、およそありとあらゆる種類の店が両側にビッシリと並んでいる。買い物はここへ来れば何でも間に合う寸法である。ーー

江戸期にあった見物客向けの盛り場の賑わいは姿を変え、地元の人向けの生活感あふれる下町の商店街になっているのが見て取れる。

この後に、震災、空襲と焼け野原になってしまうことが続くが、昭和30年代までは概ね、こんな感じの商店街だった。

荻窪、阿佐ヶ谷で長いこと暮らし、昭和30年代に浜松町に引っ越してきた、僕の母親にとっては、この商店街は、とっつきにくい風情だった。毎日の食料品の買い物をするには、店の選択肢が少ないことをよく愚痴っていたことを思い出す。僕もこの商店街は、山手線の外側にあった家からは遠いこともあり、出かけた記憶がほとんどない。

一つだけぼんやりある光景は、帽子屋だ。
小学校にあがったときに頭の寸法に合う帽子がなく、学校の出入り業者もお手上げで、自分で探すようにと言われてしまった。母親はいろんな洋品店を訪ねたらしいが、どうしても見つからない。そのうちに、芝神明の商店街には帽子屋があるという話が伝わってきた。さっそく母親は僕を連れて、それまで行ったこともない商店街の奥にある帽子屋を訪ねた。帽子屋の外観は何も覚えていない。帽子屋にはいると少し天井が高く上の方が薄暗くなっており、その薄暗闇の階まで、形も色もさまざまな帽子がたくさん吊るされ陳列してあった。普通に、と言ってもそのころ既に帽子をかぶる人は少なくなっていたのだが、普通に男性が被るハットから、鳥打帽やベレー帽、ハンチング、キャップなどが客である人間に覆いかぶさるようにしている様が見えた。奥から店主が出てきて、母親の用件を聞くと、また、奥に引っ込み、しばらくすると、ひとつの帽子を持ってきて、僕の頭にすっぽりとのせた。なんと、ぴったりだった。この後に、びっくりした僕は、店主の顔をつくづくと見たような気がするのだが、店主の顔は浮かんでこない。外見は古めかしく寂れたような感じではあるが、この芝神明商店街には、他にはないものまであるような不思議な店が静かにある、みたいな印象だけが、子ども心にきざまれたのだった。


浜松町という町の古層にある、芝神明宮と増上寺、そして埋め立ててゆかれ海に伸びていった海岸線について、そのイメージを思いつくままに拾ってみた。

江戸期の浜松町には、芝神明あたりと古川の河口には南北新網町という二つのアジールがあった。江戸の市井のひとたちや見物客でにぎわう芝神明の盛り場が正のアジールならば、流れ者がゆきつきアジトにし、いわば裏社会の社交場や市場でもあった新網町は、負のアジールと言えるかもしれない。(新網町については、「昭和30年代少年の浜松町地政学」で書いてます。)
この二つのアジールは、江戸期の浜松町に、直接目には見えないにしろ大きなエネルギーをもたらしていただろう。

御一新により、このふたつのアジールを背後から支えていたともいえる増上寺の権威が変化したことや大きな社会構造の変化で、芝神明の盛り場は、地元の人たちが生活用品を購う場所となり、新網町は赤羽橋にできた軍施設の残飯をあてにする細民街と変わっていった。

さらに、震災と戦災が浜松町を襲う。震災で芝離宮に難を逃れた住民たちが、一夜明けて、鉄道のガードを抜けて目にした光景は、増上寺の三解脱門まで何もない焼け野原だったという。戦災にあった戦後には、神明小学校の近くから、焼け野原の向こうに皇居のお堀がしばらく見えていたという。それぞれ、浜松町の古老、僕の小学校の同級生の祖父や祖母から聞いた話だ。

僕が住んだのは、戦災から立ち上がった浜松町の町だった。いずれ、書くかもしれないが、昭和30年代少年少女にとって、防空壕のあとや年取った親族からの話で、戦争の生々しい痕跡は意外と身近にあった。

そして、江戸期にあった二つのアジールが醸しだした不可思議な磁力も、潮の匂いも。

往時の浜松町を行き交い、生活していたひとたちの顔も見えず、声も聞こえてはこないが、長い時間が積み重なり瓦礫となり堆積してしまったものごとや人びとの記憶の上にまるで突然変異のようにあらわれた事象のなかにも、ひとならばそのひとの顔にそれまでの人生があらわれているように、その町独自の心象風景があらわれているように思われる。


Well, I guess, everything dies, baby, that's a fact
But maybe everything that dies someday comes back
Put your makeup on, fix your hair up pretty
And meet me tonight in Atlantic City         "Atlantic City" by Bruce Springsteen


*参考及び引用図書
・『一外交官の見た明治維新』アーネスト・サトウ 岩波文庫
・『東京都江戸東京博物館調査報告書第27集 芝地域を考えるー愛宕山・増上寺・芝神明』東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編集 東京都・公益財団法人東京都歴史文化財団・東京都江戸東京博物館 平成24年
・『明治っ子雑記帳』大林清 青蛙書房 平成2年





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