内田也哉子さんの弔辞

弔辞で悲しみや感傷以外の涙を誘われたのは初めてに近い感覚だった。
ほっとする、救われる、許される、そんな思いがした。

樹木希林さんの娘、内田也哉子さん。
彼女の仕事については正直よく知らない。
昔観た映画 ”東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜” で、樹木希林さん演じるオカンの若い頃を演じていたぐらいしか知らない。

彼女については仕事よりも、家庭環境の独特さについて世間と同じレベルで知っているぐらいだ。

お母様はあの個性、父親は何者か知らないけれどなんだかとんでもなさそうだし、と思ったら旦那様があの美しいモッくん。とんでもない個性派のなかにモッくんというまともなひとがひとり紛れ込んでいて、それがまたあの一家のただでさえ強烈な個性を更に強めている、そんな印象だった。(モッくんの人となりは全く知らない。見た目と役柄の印象だけで勝手にまとも枠に入れ込んでいる。)

也哉子さんはきっと、あの独特な一家をこれが私の家族!と誇り、凛と生きている、そう思っていた。きっと強い女性だと。

しかもなにせモッくんに愛される女性だ。内側から溢れる美しさはあれどいわゆる分かりやすい美女ではない也哉子さんを、十も年下の彼女を、二十にも届かぬ頃の彼女を、かつてトップアイドルであった彼は見初めたのだ。苦労が目に見えているあのとんでもなさそうな家庭に飛び込んだのだ。しかも婿養子として。そしてとても愛らしいこども3人に恵まれている。雑誌の表紙を飾った一家三世代の写真は「洒落ている」そのものだった。何もかもできすぎたドラマのようで、だからこそ、できすぎたドラマのように、私は彼女が強く凛とし、自身の家族のことをありのまま受け止め、むしろ誇りを持って生きている。私の家族はかっこいいでしょう、なんて思っている、そんな気がしていたのだ。

けれど、その真は出来過ぎたドラマなどではなかった。

也哉子さんは人並みに傷付き戸惑い葛藤する人だった。人並みと言ってもあの家庭だ。あくまでも傷つき戸惑い葛藤する「心」が「人並み」なだけで、抱える苦労は人並みではない。血を分けている父と縁を切ることは不可能。この父から逃れることはできない。そんな苦悩も持っていたのだ。

それを知った時、自分自身が也哉子さんの気持ちにじんわり溶けゆくような思いがして、涙が零れ落ちそうになった。悲しみの涙や安い感動の涙ではない、自分が許されるような、ほっとする思いがしたのだ。

彼女ほどの人でもこうやって縁を切ることのできない、自分の力では決して変えることのできない存在に、生涯付き合うしかない存在に苦悩していることに、自分に重なるものを感じ、安心するやら許されるやら、そんな自分がいた。

私は昔から親族にコンプレックスを抱えている。周りの家庭はいつも健やかで美しく見えていた。コンプレックスを生じさせるうちのひとりは父だった。12年前に脳出血で倒れた父は高次脳機能障害を抱え、突発的に叫ぶようにもなった。それが障害からくるものと分かっていても、受け入れ難かった。言葉をほとんどなくしてしまい、私の名前も出てこないのに、人を罵る汚い言葉だけは残っている。娘のくせにひどいことを言うが、それは彼の積み重ねてきた人生の貧しさを表すような気がして悲しかった。道具の使い方も分からなくなるのが高次脳機能障害の特徴で、これを食べるにはフォークを使う、ということもすんなりわからないこともあり、どんどん動物的になる父を、昔以上に人に見せたくない、知られたくない、とも思っていた。障害を抱えた父がいるのに、いや、いるからこそかもしれないが、遠く離れた地での就職を選んだ自分をひどい悪人だとも感じていて、それは私の勝手なコンプレックスに拍車をかけ、職場では誰にも父のことを話さずにいた。本当は仕事をせずずっと家にいるのだが、周囲から親の話を振られる時は仕事をしている形にしていた。職場は人に恵まれやりがいを感じられとても楽しい場所であるとともに、私にとって目を背けたい家族の現実から逃れられる有難い場所でもあった。

こんな父がいたら結婚してくれる人なんていないだろう、なんてことも本気でずっと思っていた。自分が愛されれば良いだけの話なのに、最低なことに父のせいにして恋愛にまで臆病になっていた。人の結婚式で新婦から両親に向けての手紙を聞くたび、憧れを並べた言葉たちの清らかな美しさに触れるたび、自身に諦めを感じ、胸は痛んだ。

そうは言っても自分の父だ。どれほどグダグダ言っても私の父は彼一人で、その現実とさよならすることは絶対にできない。倒れるまでは身を粉にして働いてきてくれた父だ。父は言葉を知らず、周りに頼ることが苦手だった。がさつで家のことをする印象はほぼなかったけれど、朝5時頃には家を出て毎日懸命に働いてくれていた。仕事人間だった。頭を下げることも厭わない人で、革新的なことをするところもあった。私には到底できない仕事をしてきた人だ。だから嫌いではないし尊敬する面もあるのだけれど、父を受け入れるには、どうしても周りの友人達の家庭が問題なく見えすぎた、というのが本音だ。

どんな家も色々ある。家のイロイロなんて他人に見せるものじゃないから見えないだけ。そうは言ってもまるでこどものように、こんなコンプレックスを抱えているのは自分だけのような気持ちに私はいつもなっていた。

也哉子さんの弔辞は、これほどかっこよく見える、自分の置かれた人生を凛と受け止めているように見える人にも、これほどの苦悩があるのだ、ということがすんなりと心に染み渡った印象がある。

ずっと別居しているにもかかわらず頑として離婚しない母を理解し得なかった彼女が、母亡き後見つけた父から母への手紙を読んだ時の心の動きも胸にくる。

私は父の情緒的な面や文化的な面を知らない。健康な頃もそういう面を見たことがなく、何かに感動しているのを見たことがない。車の中の音楽はNGだったし、仕事のプレッシャーからかノイローゼ気味なところがある父だったので、母と楽しげに会話をしている場面に遭遇することもほとんどなかった。かと言って、何かに強く悲しんだり落ち込んでいるところも見たことがなかった。感情を柔らかに表に出すことがひどく苦手だったのかもしれない。感情を表現するための言葉という手段を持ち合わせていなかったことが大きいだろう。

母はむしろ情緒的な人で言葉をたくさん知っている人だ。お見合い結婚とは言え、なぜ父を選んだのか不思議に思う時は多かった。

だが、最近、父が結婚前、母をデートの後に実家まで送り届けた後、家に上がって美味しいコーヒーを豆から淹れたり、コーヒーゼリーを作ったりしていたエピソードを初めて聞いた。確かに父は自営業に入る前、社会経験ということでコーヒー関係の会社に勤めていた(働き者でうちでこのまま勤めてほしいと言われたそうだ。)。とは言え、父が母の実家でそんな振る舞いをしていただなんて私からすると信じられない話で、しかもエピソードにコーヒーという素敵なアイテムが登場するあたりが、そのエピソードを一層物語のように感じさせた。

そんな思い出が二人にはあるのだ。

也哉子さんも、父から母への手紙を読み、受け入れ難かった幾多のことが、きっと少しは溶けていったことだろう。そうは言ってもこれからも父に苦脳するだろうし、手紙のことを忘れて父を叱咤したりなぜと叫びたくなったり諦めたくなる時はくるだろう。私もきっとそうだ。

也哉子さんは、自身の母への最大の恩返しは夫と結婚したことだと言っていた。

モッくんは、彼女の家族を面白がり、彼女の父を時には本気で殴ったり、彼女の母の悪いところをきちんと指摘してくれるそうだ。なんとできた人だろうか。彼女はこの夫がいる限り、きっと大丈夫なんだろうな、と思う。どんな時も寄り添ってくれる、自分が生涯逃れられないものもひっくるめて受け止めてくれる存在に出会えたことは、人生の宝ではないか。

私がずっと抱えていたコンプレックスは、ここ一年ほどで随分と消えてきている。そうは言っても、これほどいい歳になっても父への反発心は完全には消えてはいない。これからもそうだろう。けれど、職場の人にも随分と父のことを話せるようになった。これは私にとっては画期的なことだ。こんな日が来るとは思わなかった。

コンプレックスが消えていった背景は色々なのだが、歩みが遅いなりにも少しずつ進めている気がすることは嬉しいことだ。私の人生は、ようやく新たなステージに入ってきているように思う。

也哉子さんの弔辞に関するニュース: https://www.news-postseven.com/archives/20181004_775147.html?DETAIL


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?