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私という男 #2福岡第一高校時代

将来を見据えて

私は進路について考えていた。

中学校3年生になると何処の高校に進学するか決める時期になるが、私は幸い福大大濠と福岡第一から誘いがあり両校で悩んでいた。

当時から全国大会の常連校でタレント揃いだった福大大濠。

竹野明倫
山下泰弘(島根スサノオマジック)
堤啓士朗
寒竹隼人(仙台89ers)
小林大祐(アルティーリ千葉)
片峰聡太
橋本竜馬(レバンガ北海道)
金丸晃輔(島根スサノオマジック)

対して福岡第一は今でこそ強豪校として全国に名を連ねているが、それまでは強豪校と呼ぶにはまだ歴史が浅かった。


全国大会常連校に有名選手多数......。
普通はこの時点で福大大濠を選ぶ人が大半であろう。

しかし私は福岡第一に興味があった。
何故なら当時、福岡第一には身長2mを超えるセネガル人留学生が2人居たのである。

私は高校生に上がる頃には身長192cmになっており、当時は190cm以上もあればビッグマンとして重宝され、中学生ではもちろん高校生でもゴール下で身体を張るポジションに就かされる傾向がある。

しかし私は、将来プロになった時に2m以上ある外国籍選手相手にゴール下で勝負しても通用しないと分かっていたので高校からはポジションを上げたかった。

そう考えた時に彼ら留学生がいる福岡第一に行けば少なくともゴリゴリにゴール下でプレーすることはない。

たとえ3番のフォワードが無理だったとしても3Pも打てる外寄りの4番としてプレーできれば、私の将来に繋がると思った。

だから私は、将来を見据えて福岡第一高校に進学すると決めたのである。


寮にも入らず、スポクラにも入らず

入学した私はバスケ部含め部活動生が入るスポーツクラスには入らず、普通のクラスよりも学力が少し高いクラスに入ることを志望した。

家も自転車で通える距離のところに引っ越しをした。

寮生活ではなく実家にした理由はそれだけバスケットボールに集中して欲しいという親の意向だったと思う。

現に3年間、身の回りのことは親に甘えることができた。


自分に課したルール

私はこの3年間で必ずスタートになって試合に出て結果を残したいと覚悟を決めていた。

その為、自分にとって良いこと、プラスになることはどんどん実践した。

私は3年間、一度もコーラを口にしなかった。
今となってはそれが意味のあるものだったかは分からないが、相当な覚悟でバスケ人生を歩もうとした私なりの決意の表れだったのだと思う。

高校生になってお風呂は必ず20分浸かるようにした。そして上がったら必ずストレッチをする。

このルーティンは33歳になった今でも変わらない。妻と出会った時から、お風呂に浸かる時間とストレッチの時間、これを全て含んで初めて私のお風呂は完了する。

寝る時間も大体いつも22時頃には寝るようにしていた。そしてどんなに遅くても23時までには必ず寝るよう自分に課したのである。

食べる物もお風呂も寝る時間も全部身体のためにと思って生活してきた。


激練

福岡第一には伝統的な時期がある。

通称「激練」

簡単にいうと死ぬほどキツイ練習をするという事なのだが、次の大会まで期間が空くと激練の時期はやってくる。

高校3年間の中で、私が2年生の頃の激練が一番キツかったと思っている。

2Lのペットボトルを両手に持ちひたすらディフェンスフットワークをして

フリースローライン、ハーフコート、フリースローライン、エンドを往復するシャトルランを走り

5往復のスプリントは60秒で走らないといけない。(私は全然間に合わない)

"インターバル"というラントレの時に井手口先生に止められ「声が出てない」と言われ、一番最初からまた始めさせられたり。

ラントレが終わったかと思ったら5メン(3メンの5人版)で1往復〜10往復まで走り、今度は10往復〜1往復まで下る。

3メンを2〜3kgのメディシンボールを使い100本連続決めるまで終わらなかったり。

おそらく......いや確実に私のバスケットボール人生の中で一番キツイ練習だったと思う。

故に当時の私は冗談なしで
「一日一日をどうしたら生きていけるか。」
そればかり考えていた。

「過去に戻りたいか、戻りたくないか?」
そう質問されたら、私は迷わず「戻りたくない」と答える。

それはこの激練があったからである。


2004年インターハイ優勝

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