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旅文通3 - リスボンの夏

 欧米諸国が一斉にパンデミック収束を謳ったあの夏。
 帰省、出張、バカンスの客が各空港に押し寄せていて。
 一方、航空会社も空港も、従業員は辞めてしまい、欠員補充が追いつかず、
「ターミナルの外までスーツケースの海!」(ロンドン、ヒースロー空港より)「保安場通過に14時間!」(スイス、チューリヒ空港より)
 等々の、友人たちの欧米諸国空港情報がスマホの中で飛び交う中、
 ニューヨークからリスボン行きも、御多分に洩れず、32時間遅れと相成り。

 私もニューヨークの空港情報送りましたよ。
「運転手不在で機体がゲートに辿り着けず+機体整備員欠如で作業は大幅の遅れ」(ニューアーク空港より)

 そんなわけで、丸二日滞在予定だったリスボンには、たった半日しかいられず、
ちょうどリスボンに帰省中だったニューヨークの友人に会えず、
リスボンと言えばヴァスコ・ダ・ガマなのにジェロニモス修道院にも行けず、
美術館いくつもあるのに一つも行けず、
しかも疲れ果てていて夕食抜きの、ひたすら眠る一夜になったのでした。

 半日を過ごしたのは、アルファマ地区です。
 旅行ガイドには“昔ながらの街並みが残されている下町”などと紹介されているけれど、正確に言えば、貧困街です。
 小さな窓から、老若男女が無表情な顔を出していて、その奧の部屋には、床に置いたマットレスと薄い毛布一枚だけが。
 路上に突き出た洗濯物は、擦り切れて、穴だらけのシャツも。
 テオさんから教わってきたパステル・デ・ナタ(エッグタルト)も、早速試したけれども、おばあさんが一人でやっている間口のとても狭い店で、砂糖と卵と小麦粉の味がするそのお菓子を、ざらざらと粉っぽいコーヒーで飲み下しましたよ。

 アルファマは、1755年の大地震で被害を免れたおかげで、711年に始まったイスラム統治時代の、文字通り古い、古い、街並みそのままの地域で、石畳と呼ぶには凹凸激しく、平らな通りは一本もなく、どこも勾配がきつい。その中に、やたらとモダンでハイテクなプチホテルやカフェができていてギョッとさせられます。(その一つにギョッとしながら入っていき、その部屋のハイテクさに再度驚き、ウエルカム・カクテルまであってそれはリスボン風にアレンジしたアマレット。美味しくいただきベッドに沈み込んだわけです)。

 リモアやサムソナイトと一緒に途方に暮れている旅行者があちこちの路上にいました。何しろ道が狭くて勾配と階段に囲まれたところなので、タクシーも中まで入って来られないんですよ。

 路地裏のアパートでは、若者が博打をやっているのがチラ見できます。そのすぐ前では、網の上のイワシがいい匂いを放っていて、観光客を引き寄せています。
 
 ポルトガルは、いろんな国に支配されて、長い間混乱と共にあり、今でも政権はあまり安定していないのですね。1974年にはカーネーション革命(別名“リスボンの春”)と呼ばれるクーデターもありました。

 リスボンの歴史を調べたわけじゃないんです。空港で乗客がかたまってあれこれ文句を言い合いながらお互いに打ち解けていくのは、米国の空港チェックインカウンター付近ではよくあること。その時も、洗練の極みを体現した容姿と装い、それから柔らかく発しているオーラで、ひと目で階級がわかる若いポルトガル人一家が乗客仲間にいて、その若奥様がまた、話し出すと人を決して飽きさせないカリスマ性を発揮するのです。チェックイン・カウンターの周りで、旅の友 - 乗客一同-  と、カウンター内のユナイテッドの職員 - 「今日が初出勤だから、私に何聞いても何もわかりませんよ!」が口癖 - と、皆で聞き惚れました。その話で私はポルトガルの歴史を学び、その覚えたての、ごく大雑把な歴史の断片を、リスボン、いえ、アルファマの路上に見ることができたのでした。

 戦乱の名残を見た、とも言えるけど、今後の世界の風景を垣間見たような感覚にも幾度も包まれました。背筋のゾッとする世界の縮図、同時に、だからこそ、詩がそこここに漂う気配も濃厚で。

 アルファマを歩くのに、丸一日の飛行機遅延は必要だった、ということですね。また行かなければ。アルファマの文学的空気をもう一度吸い込むため、それからリスボンの他の地域、たくさんの良きものに触れるために。

 



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