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ヴェネツィアの朝は掃除を

旅の朝に目覚めて窓辺から外を眺めるとき、ようやくここまで「来たな、」という確信と、まだ始まらない今日への期待がハートで湧き上がる。窓の外に見えるものは実際に行ってみないとわからないし、予約ができるものではないけれど、できれば朝靄の動く海や、小鳥の鳴き声がする中庭や、通勤途中の誰かが急ぐ通りなど、何かしら好ましく「ああ、ここには毎朝これがあるんだな」と納得させてくれる景色があると、心が喜ぶ。
 
その年のヴェネツィアはいつもの訪問よりずっと長く、夏から秋にかけて過ごした。ホテルではなく通常のアパートメントだったので、日頃ニューヨークでやっているごみ出しなども自分自身でするわけで、その地域の行政が定めた便利で簡単、もしくは訪問者には少し難解な生活のあれこれを経験しながら、朝は始まった。
島国で育ち、島へ移住し、旅先としてまた島へ。つくづく島が好きなのかな、好きなのだろう。ヴェネツィア本島での早朝のスタートは、初日からまるでリングに鳴るゴングのように鮮明でありながら、実のところまったく静かにやって来た。夜明けとともに私の心の目を覚ます、音のないゴングだった。無音でかーん!
 
起きるとまず大きくて重い縦長のガラス窓を開け、鎧戸を開き、室内にこもった湿気を外気で飛ばしつつ、さらなる湿気を部屋に招き入れるのかもしれない空気の出し入れをする。外から来た人のなかにはこの無数の運河が交差し合うこの街の湿気を嫌う人もいるそうだが、日本生まれの私には気にならない。ひんやりした空気を感じながら、外のようすをうかがう。2階から見下ろす真下の小路と、そこから垂直に真っすぐ向こうへ伸びる袋小路にもまだ人の往来はないが、早朝のある時間、タイミングが合えば掃除人の姿を見つけることができる。市の職員なのだろう、制服らしきカジュアルな上下を着て、まるで中世から持って来たような長箒を両手で握り、ひっそりした通りを掃いている。急ぐでもなくゆっくりでもなく、黙って頭を垂らしたまま、長い棒の先にある、巨人の眉毛のような細く膨らんだ植物の房を動かしている。

夜が開けるたび、彼らは敷き詰められた石の路面をすみずみまで丁寧に撫でにやって来る。その出来栄えは、私には神社の参道の清潔さに見えてしまう。街自体がエネルギーで汚れたゴミ箱のようなマンハッタンから来た私にとって、その北イタリアの掃除魂は何度見ても感動的で、油絵は描けないけれど油絵で描いてみたいような、クラシックで価値のある、優しい世界に見えた。

小路の清掃が終わる頃になると、家庭ごみの回収人がやって来る。それぞれの家の軒先きに向かって「スパッツィーノ!」と叫ぶ。最初は何と言っているのかわからなかったので、その次はよく耳をすませて、聞いた音を頭の中にアルファベットで並べて、spazzinoと想定し、グーグルで検索すると‘ごみ回収人’という意味だった。その声を聞くと、私はごみを詰めた袋を持って、飼い主に呼ばれた犬のようにためらいなく階段を1階ぶん下り、ドアを開け、ごみ袋を送り出すことになる。
回収人は手押し車に集めたそれぞれのビニール袋を乗せ、すぐ近くのこぢんまりとした船着場の清掃船へ運んでゆく。清掃船の向こうには大運河をはさんで15世紀に建てられた壮麗なゴシック建築のカ・ドーロ(黄金の館)が水に浮かんで立っている。
 
さてここまで、街を美しく保つよう立ち働く人々を眺めているばかりで、私自身は何もしていない。ちっとも掃除もしていない。泊まっている部屋の清掃も数日おきに建物の持ち主に雇われているポーランド人のおばさんが来てやってくれる。では、ヴェネツィアの朝はお掃除を、などど言いながら、働く人々を呑気に眺めてばかりの私は何もしないでいいのだろうか。これは大きな問題。通りも街も部屋もすっかり整えられて、掃除してないのは私だけ、ということになってしまう。しかし、実際のところは、たいへんに、もうどうしようもないほど毎日累積して散らかっているのだ、内面が。
この旅先ですでに出会った無数の出来事が全身に満ちていて、高揚し、頭もマインドもパッションがごったになって渋滞し、ある部分では発酵さえ始めている。綺麗でも整頓されてもいない。何もかもが折り重なって混ざり合い記憶の中でせめぎ合っている。得体の知れないLOVEも時折爆発している。なんとかしたいが、できない。旅はいつも膨らんでゆくばかりで途中では止まらない。ヴェネツィアの清掃人のみなさんありがとう、ごめんなさい、私はちっとも掃除をせずにこの街を去るでしょう。この窓辺に立つ朝を想いながら、私が掃除するのは約6700キロメートル離れた自宅へ戻ってからになりそうです。  

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