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旅文通8 - 旅情はどこに、ヴェネツィアに? -

旅人よ、いずこへ。
 
ただいま!
北半球にはたいへんな夏が来ていますね。
異常な気温上昇の中、マスクを捨てた渡航者で大混乱する空港とエアーラインの遅延や欠航、空を見上げると山火事の煙の被害、もっと遠くの上空では戦争による飛行空域制限などと、人類にとって〝さり気ない旅”はもう雲の彼方に消えてしまったのでしょうか。
前回のやすこさんの旅文通は、海岸線を走る中距離バスの中で読みました。その日もやっぱり、さり気なくはない旅の朝でした。
 
初めての場所への移動だったので、目的地が近づく頃にはiPhoneのGPSを見ながら下車するタイミングに気をつけていました。にもかかわらず、下車できず、唖然。
そもそも降車ボタンも車内アナウンスもなく、運転手も無言のまま走っていたので、己の肉眼があればノープロブレム!と、バスの前方へ首を伸ばし、車道沿いにバス停が見えてくるのを待っていました。しかし、実際のところ私が降りたかった場所にはバス停もサインも何もなかったのです。目印がまったくないのは想定外でした。GPSの現在地はみるみるうちに海岸から離れ、バスは切り立った崖を這うように曲がりくねった狭い道を登り、つまり私は目的地をどんどん遠ざかり、あっという間に崖の上へ運ばれたのでした。今となっては、書いていてなんだか笑いがこみあげてきます。
 
ちなみに、ではどうすれば目的地で降りることができたのか振り返ってみると、降りたい場所にはえている樹木などを覚えておいて、前方にその木を目視するやいなや、満席の乗客の頭を越えて運転手に聞こえるほどの大声で、ひと言、現地語で「ここで降りるので停めてください!」と叫ぶべきだったのでした。
旅情など生まれるはずもない移動。しかしこれも旅の大切なパーツなんですよね。

やすこさんが書いてくれたデビッド・リーン監督の映画「旅情」。もちろんそのタイトルを聞くだけで、あのゆったりしたテーマ曲が聴こえ、メロディーの中で不慣れそうにヴェネツィアの小路を歩き、16ミリカメラをかまえながら運河に落ち、列車から身を乗り出して手をふるキャサリン・ヘップバーンが脳裏に流れます。
私にとってこの映画は幼児期にテレビの再放送でくり返し観たアメリカ映画のひとつです。だいたい3歳から6歳くらいまでの時期で、それは私が映画にドハマりした第1期でした。朝となく昼となく深夜でもテレビの前に座り、黙ってひとりで観ていました。幼児がじっと洋画を観るのを訝しんだ母は、ときおり「そんなのを観て筋がわかるの?」と尋ねると、「このおばさんがあのおじさんのことがすきで、けどあのおじさんは、、、」とストーリーをそれなりに説明していたそうです。
 
その頃の私が観た「旅情」には、他の映画では感じたことのない違和感があったのを憶えています。見終わってどうも納得いかないような何か。あとになってその違和感の正体はわかりました。単純に主人公がふたりとも中年で、子どもが解釈する恋としてはあまりに渋みの効いた年代だったのです。
小さき視聴者にとっては日頃読み込んでいる世界童話全集の「人魚姫」や「かぐや姫」こそが恋愛のスタンダードであり、真実であり、人生経験を積んだ男女が新しい愛に出会うことを知らなかったわけです。ゆえに「旅情」のキャサリン・ヘップバーンとロッサノ・ブラッツィはまるでおばちゃんとおじちゃん、へたをするとおばあちゃんとおじいちゃんに見えていたのでした。正当な映画ファンのみなさん、ガキをお許しください。

では謝意をこめて、主人公の年齢について、ちょっとウィキペディアで確認してみましょう。長年の夢だったひとり旅での高揚感と、その裏側に貼りついた寂しさに心揺れる未婚のアメリカ女性ジェーンの設定は38歳。彼女を演じるキャサリン・ヘップバーンの実年齢は48歳。一方、運河のほとりで骨董屋を営む妻子持ちのイタリア男性を演じるロッサノ・ブラッツィは実年齢が38歳ながら、撫でつけたオールバックには白髪が目立っている。
間違いなく、そうだったんですね。
 
中年のロマンス。
 
この映画のアメリカと日本のプロットや映画評を読み比べると、それぞれの視点がずいぶん違っていることに気づきました。
アメリカではこの主人公がミドル・エイジ=中年の男女であるということが大前提のようです。
ある程度の人生をすでに生き、おそらくはもう後戻りできないだろうと感じているふたり。今よりずっと保守的だった約70年前の価値観を感じます。そんな彼らにとってヴェネツィアの絵葉書を並べたようなうっとりする甘い景色は、あくまで美しいバカンスに振りかけた香水くらいの役割で、目の前の愛については驚くほど率直なやりとりをしていました。
それに比べ、日本では異国情緒をたたえたロマンティックな世界に、不器用な女がひとり旅をするという部分が注目されていたように思えます。ヴェネツィアのゴンドラよりも不安定に揺れる女心が出会う真っ赤なゴブレットのきらめき、一生忘れることはないであろう男性とのひとときの悦びを知る、といった旅路の魔法が甘く満ちています。
アメリカと日本のそんなズレは映画のタイトルにも表れていて、アメリカでは夏季という意味の「Summertime」とバカンスの匂いを保ちながらも、季節を名指しした現実感を感じるし、日本はそれを「旅情」と訳し、旅路でしか得られない独特の情緒を含ませている気がします。
 
今、私にとってあの映画は「Summertime」ではなく、やはり「旅情」です。アメリカ人はあの映画でサマータイムを堪能し、日本人は旅情を経験できるのではないでしょうか。

ところで、白いドレスのキャサリン・ヘップバーンが、16ミリカメラをかまえたまま、豪快に運河へ落ちるあの有名なシーンが撮影された場所は、ヴェネツィア本島の南側、ドルソドゥーロ地区にあるサン・バルナバ広場にあり、もちろん現在でもそのままです。
私は何度かそこを通ったことがありますが、そのたびにあの映画のワンシーンを想い出し、運河の水面を見て、心の奥にかすかなトキメキが弾ける気がします。立ち止まるでもなくただ通り過ぎるだけなのだけれども、ちょっと心がパチパチする。
あの映画の記憶を持ってヴェネツィアを訪れる方は、サン・バルナバ広場の教会脇にある運河のそばを通り過ぎてみてください。小さな旅情が待っています。 

やすこさん、いつもお互いに映画の話をすると止まりませんね。帰りの機内で観た新作、Netflixで観た旧作、はやく報告したい気持ちです。

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