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旅文通6 - 旅と旅を足すと、旅のネックレスになる

わかる、やすこさん。ここに帰ってくるために旅に出るというその感覚、それを感じる時間、わかりますとも。
長いフライトを終えて、イエローキャブの列に並ぶ。ジョン・F・ケネディ空港から、全ての日程を終えてくたびれた自分がくたびれた座席にもたれて半時間ほど経ったとき、フロントガラスの向こうにマンハッタンが見えてくる。まるで長さ違いの鉛筆を束ねたような高層ビルが並ぶ遠景に、目新しさはなくとも何故か、心が反応します。
よくも悪くも特別な場所。汚れてどうしようもなくダメな街ではあっても、雑多なエネルギーが絶え間なくそこかしらから噴出しいる場所。

こういった帰還の景色というものは、どこでも、どの方にとってもあるのではないでしょうか。私もニューヨークに対してだけではありません。日本の地元に戻り、車の窓に生駒山という成長期にいつも眺めていた山が迫ってくると、普段は忘れているくせに自分がその山の姿を愛していて、その山に対してたくさんの意味を胸の奥にしまっていることに気づく。
日常でさえあります。地下鉄の駅を出て、坂道をたった1ブロック登るだけなのに、あまりに疲れていたりすると、視線の先にこのチョコレート色のボロ建物を見てちょっとだけ安心します。
どこかへ出かけ、起点に戻るのがあまねく動物どもの基本的な営みと思えば、日常から離れてたまに出かける旅もごく普通なものに思えてきますね。

今、やすこさんは日本への帰省中で、マンハッタン島のアイランダー(英語で島民の意味)として、生まれた島を縦横無尽に駆け抜けていることでしょう。この季節の日本を歩けるのはとても羨ましい。私はこちらの島でいつものいつもをやっています。この春もセントラル・パークの藤棚は満開でしたが、クマバチが花の周りをブンブンと独占していて、甘い香りはちょっと離れたところからクンクンするしかありませんでした。今週は気温が上がり、木々には透明感のある薄い色の緑が育っています。この新緑がもう少し濃くなる頃、私も出発する予定です。

さて、受け取りました、旅は何のためにするの?という問いかけは、なんとトリッキーな問いなのでしょう。さりげないようで、深遠にもなりうるし、はたまた人類の成り立ちや歴史につながる大問題のような。ゆっくり考えてみたいテーマです。

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旅の話ひとつをとっても、コロナの前と後、という意識ができた。私のコロナの前の最後の遠出は、冬のヨーロッパをバックパッカーのように鉄道で点々と移動して過ごした。それは2020年の冬に新しいウィルスが私たちを苦しめ始める直前だった。ニューヨークへ戻ってすぐ、新種の感染症のニュースがアメリカにも届き、当時の大統領はその不穏な流れをきっぱりと否定したものの、そう時を待たずしてニューヨークは異常な時期を迎えた。そして当然のことながら、多くの人と同じように私も旅人となる機会はなくなってしまった。
それまでのように、満喫と地味な用事が入り混じる母国へも、純粋にせっせと遊び呆ける島へも、または展示のための絵をどこかに置き忘れたりしないよう緊張しながら到着する街へも、遠くへも近くへもどこにも動くことがなくなった。そうして3年が過ぎ、すっかり旅情を失っていた私たち。そんな私でも、ようやく洞穴からでてきた土着の原人のように、よちよちと未開の地へ飛ぶことにした。

いざそうなると、行き先への期待で夢が膨らむ。見たこともない景色、そこで暮らす人々や生活の様子、美味しいと思わず言ってしまう食べ物、欠かせないのは美術館に博物館、教会や礼拝堂、見知らぬ店で買う宝物、ビーチを歩きながら拾う宝物、地元色いっぱいの蚤の市、友人との再会、などの喜びが待っているかもしれないのだ。ではどこへ行こうか。洞穴から出てきたのだから、一番の栄養は太陽だ。できれば静かな浜辺で心地よい風にも吹かれたい。移動が多すぎてはいけないが、バスか鉄道で複数の町と街を訪ねてみたい。

現地ではさまざまな憧れに出会うだろう。ときめきを見つけては、また次の場所へ向かう。発見が途切れることはないので、いつもよりたくさん歩き、また何かに遭遇する。驚くほどバラエティな瞬間が次々に、ときに素早く、ときにゆっくりと続いてゆく。
そうして旅の終わりにはたくさんの出会いが、形違いのカケラのように繋がって、1本のネックレスのようになっている。いつもそうだから、次の旅でもそうだろう。大げさだけれど、目に見えない首飾りはうれしい。その素朴でカラフルなネックレスをうれしそうに首にかけて、私は毎回このアパートメントに戻る。
そんな旅のネックレスは、旅の数だけ重なりあって胸から身体に染込み、私の一部となっている。その副作用については、またの機会に書きたいと思う。

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