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幸せの探求

はじめに

人間は誰しも幸せになることを望んでいます。戦争がなく誰しもが手を取り合い争いの起きない理想郷を目指しているでしょう。

私も幸せになることを目指して日々精進しています。その一つがこのようなアウトプットなのです。

幸せの形は人によって様々な形で存在しています。家庭を持つことやパートナーがいること、高い業績を出したり今まさに学びを得ていることにも幸福感を得ている人もいるでしょう。

朝日を浴びただけで幸福を感じる人もいるかもしれません。そんな小さな幸せだったり大きな幸せだったりを感じて人は日々を過ごしています。

幸せは誰もが追い求めているものですが、その一方で世の中には不幸な出来事や現状に不満を持っている人も少なくありません。離婚、虐待、誹謗中傷、業績不振、リストラ…数えるとキリがないように見えます。

日本は世界と比較したときに幸福度が低い部類になっているそうです。2020年から現在にかけて少しずつ上がっているそうですが、先進諸国と比べると最底辺なのだとか。

幸福を感じにくい日本でどのように幸せを追い求めていくのか。本日はアドラー心理学を基にして幸せというものを探究していきたいと思います。

幸せとは結局何か

結局、幸せとはなんなのか。結論から書いた方が良いでしょう。個人心理学ではこのような回答をしています。

「幸せとは、貢献をすることだ。」

他者に貢献をする事が幸せの正体であると述べています。なぜこのような考え方をしているのでしょうか?それについては、まず幸せを感じられない人にフォーカスする必要があります。

幸せを感じされない、現状に不満を持っている人は日本には多くいます。SNSを見る限りでも、不満や愚痴ばかり吐き出しているアカウントや仕事に不満を持っていて転職したいけどできないと嘆くアカウントが多い印象です。

「負の感情を吐き出すところは必要だ。」という人もいるでしょう。果たしてそんなことをする必要は本当にあるのでしょうか?

アドラーは体と精神を切り分けて物事を考えることを明確に否定しています。負の感情や正の感情という複数の存在は最初ならおらず、全て「あなた自身」であると言っているのです。

怒ると言う感情は意識して使っている

怒るという行為の必要性についてもアドラーは明確に否定しています。人は本来、怒る必要がないのです。

人が怒るという感情を出したときによくあるのが「カッとなって怒ってしまった」「怒るつもりはなかったが我慢できなかった」という言い訳を持ち出す事がしばしばあります。しかし、彼ら彼女はカッとなったのではなく明確に意思を持って怒っているのです。

怒ろうとしたから怒った。ここは非常に重要なポイントです。

例えばこんな話があります。ある母親とその子供が激しい罵り合いをしていました。その緊張はとてつもなく今にも闘争に変わる勢いでした。そのとき、一本の電話が鳴り響きました。母親はその電話に声を荒げながら出ます。しかし、相手がいつも世話になっている学校の先生とわかると、態度が一変し明るい口調に変わりました。何度かの会話ののち電話が終わると、母親は豹変したかのようにまた子供を怒鳴りつけました。

このような話はどこにでもある日常ですがおかしなところがあります。母親は自分の感情をなんなくコントロールしているのです。

人は感情をコントロールする生き物です。できるのでなく、無意識レベルでしているのです。この人には怒ろうとかこの人には怒らないでおこうとかを日々選択しています。

つまり、人は感情に流されているのではなく、意図的に感情を使って行動しているという事です。

負の感情について考察する

怒ることについて説明しましたが、同じように考えることで負の感情についても説明がつきます。

アカウントを使い愚痴を垂れ流したり誹謗中傷をするのには明確な目的があります。それは、注目を浴びることでしょう。

愚痴に同調してほしい、誹謗中傷をしてSNSの世界で輝きたい、逆張りをして世間から注目の目で見られたい。そのような承認欲求を満たすために、自分の感情を使っているのです。

承認欲求それ自体は、人間が誰しも持っている本能です。しかしこれらは幸せを掴むために行なっているのではなく、一時的な快楽を得たいがために行われています。麻薬を吸っても幸せになれないのと同じで、一時的快楽を追求しているうちは幸せになることはできないでしょう。

幸せを感じる瞬間

視点を変えて、幸せを感じることにフォーカスしてみましょう。人はどんなときに幸せを感じるのでしょうか。

幸せを感じる瞬間には共通する事があります。それは、自身の価値を感じたときです。誰かの役に立ったとき、人は自分の価値を感じるのです。

そこで、先に言った貢献が出てきます。他者に貢献する事、つまり誰かの役に立ったときに幸せを感じるという事です。

勘違いをしてしまいがちですが、本当にその人の役に立ったのかは重要ではありません。我々は主観の世界で生きているのであり、他者の考えは一切分かりません。本当に他者の役に立ったのかを気にするようになってしまうと、貢献ではなく承認欲求になってしまいます。

大事なことは相手が喜ぶことをしたという実感です。具体的な例を言うと「笑顔で挨拶をした」「家事を手伝った」「犬の散歩に行った」「SNSで好意的ななリプライを送った」などが当てはまります。

その程度で価値を感じる事ができるのかを怪しんでいる人は、おそらくその程度のことも実践していないのでしょう。全て考えるだけなら誰でもできますが、実践できる人は少ないように感じます。

また、実践しているのに価値を実感しない人は、無意識に対価を求めてます。実践したけどあいつは感謝しなかった、お礼をしなかった、思った通りにならなかった、と。

貢献をする際には対価を求めてはなりません。いわば無性の愛を他者に配るのです。それで感謝するかは相手次第。私たちは要求することはできないのです。

まとめにもならないまとめ

ここまで読んでいただいた方の中には「貢献に意味があるのかわからない」と疑問を持っている方もいるでしょう。

貢献とは幸せの追求の果てにたどり着く一つの答えですから、今は理解できなくても問題はありません。ただ、これだけは覚えておいてほしいと思います。

幸せとは相手からもらうものではなく、自らが生み出し育むものである。

幸せは貢献することで手に入れられることができます。大事なことですので覚えていただけると幸いです。

最後に

幸せについて今自分がしていることを書いていたのですが、思ったよりも言葉にするのが難しかったです。

言いたい事がわかんね!とのことでしたら申し訳ありません。私のスキル不足です。

おそらく、これからも幸せについてたびたび語る事があると思います。その時はこの記事の復習もしくは追記みたいなものなんだなと思っていただければと…。

次回は何について話すか未定です。が多分個人心理学に関連することかもしれません。

では、また次回。

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