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「等価」性とは何か

「あるものをあるものと等しいとか、
あるものを言い換えたあるものを元のあるものと等しいと考えることであるはずだ。
それはあるものを別の表現としたものを等価であるとした時、自分の考えが他人の考えに裏打ちされたことになるはずで、
これとこれが等価であると判断されるなら、
それが正しいと原則として認められたことにできるとなる。
事実としては他人には伝わりにくい。
しかし、自分の思いとあるものが等価であると
考えが及んだ時、それは自分の考えが正しいものであると判断できるようになるという意味があるはずである。
つまり等価であるとは、それとそれが等しいことであり、イコールでむすべることから、
同じことであると言えることである。
ということは先にあったあるものが正しいとされるなら、後から浮かんだある等価な考えも正しいことになる。
それは当たり前のはずで、
言葉の表現が少々違うとしても同じことを指し示しているならば、
それは同じことであると主張でき、
正しい判定が可能な人物からすれば、
それは等価であり、等しく、正しいものと判定できる。
となるので、少々言語として違う表現であっても同じと見做されるものがあるということである。
それは字面ばかりを追っていると分かりにくい。
何故そんなことになるのかというと
それは言語の仕組みから解明されなくてはいけないので、
ここではできないが、
共通性が完全であるなら、
それは等価である、とできるはずである。
違う表現をしていてもそれが等価であるなら、
同じである。
でも、それを誰が判定するのだろうか。
人が正しいと言っても自分はそれは正しくないと感じ取れる場合はどうなるのだろうか。
ややこしくなるので、そのことを考えてみたい。
あることが正しいとする、
とするとそれと等価な意見も正しいことになる。
言葉は字面だけでは分からない、
何故か違う表現を同じものとみなしていい原則がある。
これは等価性の原則と言えるだろう。
等価であるということはイコールで結べるということで
異なる字面をしていてもそれとそれが等しい意味を持つと、そういう意味になる。
となるので、
その原則が使えるならば、また、正しいと判断できるならば、
それは実際に使えるのであり、また、正しいのである。
ということになる。
等価性は分かりにくく、
それと人が感じても、他の人はそれと感じないこもがある。
そこから誤解が生まれ、当惑が生じることが考えられるけれども、
等価性の原理が正しいならば、仕方のないことである。
この世界はそうできているためにそうなる。
その意味が分かる人にしか分からないかも知れない。」

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