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「ゲーム」に限界はあるのか

「この世界の全てはゲームに置き換えられるものかも知れません。
ゲームにはルールが付きものです。
どんなルールで世界は成り立っているのでしょう。
ではゲームに置き換えられることができないものは何でしょう?
命のやり取りでしょうか。
それはともかく、ゲームはこの世界に色々と応用可能なようです。
ところで私の部屋からは鳥の囀りがよく聞こえます。
彼らの鳴き方もゲーム的に法則があるのでしょうか。
雲雀のジジーという鳴き声は印象的です。
鳥はなんのために鳴いているのでしょうか。
彼らの身内のコミュニケーションのためでしょうか。
人間も同様に相手にされているのでしょうか。
でも、彼らにも目があり、
その目が私と合うことは滅多にないことですが、
目を合わせることも可能です。
そこにどんな意味があるのかはわかりません。
でも、鳥の目線は人と合わせないようにしているようです。
彼らの目は草食動物と同じように側面についています。
草食動物と同様に人間から逃げるように行動しています。
ある意味でそれが彼らの正直さです。
視界の中に人間を捉えて、鳴いています。
これがゲームと関係あるのでしょうか?
鳥の行動もゲームで解釈できるでしょうか。
そうすると人間に捕まらないように動けると勝ちですね。
人間に捕まると負けです。
そんなルールで世界に鳥が居るのかもしれません。
これは鳥にとってどんな意味になるでしょう。
彼らの運動能力を人間に見せつけて、
空を飛んで、それで種の保存や進化を考えているのでしょうか。
遺伝子は興味深い分野ですね。
遺伝子の構造もゲーム的に見れますでしょうか。
それをゲームとして、ゲノム解析も進んだのでしょう。
そうやって科学の謎も解き明かされてきたのでしょう。
壮大なゲームですね。
でもそれに一体何の意味があるのか、それは分かりません。
私のような浅学には分からないことです。
しかし、科学がこの世にあるのは何のためでしょう?
こんなことを考えるのは哲学的でしょうか。
科学は世界を知るためにあり、
また世界を人間に都合よく造るために
何が可能であるか知ることができます。
そうやって人類の文明は進歩してきました。
進歩できなくなった文明は滅ぶ運命にあるのかな、
なんて思えます。
それは面白いことです。
しかし、私の手には負えません。
壮大さを感じるだけです。
それは人間一人には途方もない話ですからね。
それを考えるのは、ある意味で楽しいことです。
でも、よく考えると、
悲劇を鑑賞しているのと、あまり変わりありません。
楽しいとは自分のために何かしていることを感じるのでしょうかね?
それを知るのが、自分を知ること、
世界を繋げるために知ることでしょうか。
最後まで読んで頂いたら、
感謝します。
今回はこれくらいで失礼します。」

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