「余力」が必要な時はどんな時か

「余分な力を温存しておくことで、
人が言うことを聞いてくれるというのは、
あると思います。
でもそれは相手に求めることでしょうか。
自分に求めべきことでしょうか。
余裕があることは通常いいことであるはずです。
しかし、それも分からないことになり得ます。
等価性が認められるということは原則としてそのあるものが正しいということにできます。
他の表現と同じことであるとできるからです。
余裕があってはじめて信用があるという場合もあり得るでしょう。
余力を考えておくことは日常的に有利な局面を得やすいということはあるかもしれません。
全力を出し切るよりも余った余力で何ができるか考えた方が意味があることも考えられます。
余裕振ることは切羽詰まっていないポーズの意味になります。
その意味では切羽詰まっている方が有利かも知れません。
そうしていると優先的に通してもらえるかも知れません。
しかし、それでそれを真似るのは浅はかではありませんか。
そうしている人を見かけた訳ではありません。
しかし、観念的にそう考えられるものですから、
切羽詰まっているように見せかけた方が得という認識はあるかもしれないですね。
でも、それは間違いを含んでいると思います。
しかし、私はそんなことを言いたいのではないです。
相手と話すときには余力を有している状態で話すべきではありませんか。
そうでないなら、何を話すのでしょう。
そこからの展開に耐えるためには何らかの力を温存する必要があるはずです。
そのために力を残して残心しておくのも手ではないでしょうか。
それでその後の話しがしやすくなるとは言えるでしょうか。
先を見据えた場合にはそんなことが言える気もします。
しかし、私がここで言いたいのはそうしてほしいという訳ではありません。
ここで言いたいのはそうではないかと考えられることです。
途中やりにしないためには後をしっかり考えるのが得策であるはずです。
となると、先を見据えていることを相手に伝える方がいいと考えられやしないでしょうか。
その用意がある方が今後を考えていることになります。
その方が実社会では頼りにされるはずです。
つまり余力がない人は頼りにされることはないと思いますが、
どうでしょうか。
私は人を誹謗したいのではありません。
理念的に何が言えることか探求を試みているだけです。
そこには他意が入り込む余地はないと思います。
しかし、これを書いている私自身に余力が足らないところを考えると微妙ですね。
ここまででこの話しは終わりにします。」

もしよければサポートお願いします。 頂きましたサポートはクリエイターとしての活動費用に用立てます。さらにクオリティの高い記事を書けるようサポートよろしくお願い致します。