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「悟性」とはなにか

「悟性とは道徳能力に基づいて判断をする基準になる観念である。
つまり悟性とは理解力のことではある。
悟っているとは何かを理解しているという意味であり、
しかし、何を理解しているのかは分からない。
ではどうやって何を理解しているのか確かめたらいいだろうか?
それを確かめないことには、コミュケーションに円滑を欠く事態が想定される。
歯車がギシギシなるようではいけないし、
それに人間関係が円満であるためにはそれを知っていた方がいいだろう。
しかし、それを知るためにはどうすればいいだろう。
人間関係を円滑にしたいなら、
そう尋ねればいいようなものだが、
そうもいかないものだろうか。
そうであるとここでは仮定しよう。
とすると、どうなるのか。
と言うと、そのもの自体を知りたくてもそれを知れない場合があるということになる。
これはこれで悟性である。
それはそれが思想の産物であり、
世界を理解しようとした努力の賜物であるからである。
世界を理解しようとすることは悟性を獲得しようとすることであり、
世界と人間世界を理解しようとすることである。
そこで何らかの答えを得たなら、
世界を一つ理解できたことになる。
それを一つずつ積み重ねていくことで、
道徳概念は強固なものとなっていくだろう。
これは鍛錬と呼べる。
ではここまでで何が言えただろうか。
まず悟性というのは、この世界の理解度である。
つまりそれが発達するに従ってこの世界での生き方が分かってくることになる。
そのために円滑な人間関係があれば、その方がいいだろう。
それ自体が目的でないにしろ、
それがあればいいなら、追及する価値があると言える。
そうであるから、それを獲得するために努力が必要となるはずであり、
それをあまりに過度に怠けるとどうやって生きていけばいいのか分からなくなる。
しかし、怠け方が過度ではない限り、問題ではない。
さらにどうやって生きていけるかを知れたとして、
それは衣食住を満足すればいいことであるが、
その先にさらに課題がある。
そもそも自分が何のためにあるのか、
それを考えることである。
その余裕はある程度の生きる知恵がついた上でないと得ることは難しいと考えられる。
しかし、順序はこの際どうでもいい。
つまり、生きる方法を知るのは簡単であり、
生きる理由を知る方が難しいと考えられる。
では生きる理由とは何だろうか。
答えは人それぞれに自由があるだろう。
答えは人の数だけあるだろうし、
どれが正しいのかは判断することが難しいだろう。
それを判断できるようになれば、
さらなる悟性がついたことになるが、
その判断は困難が付き纏うため、判別しづらいものである。
それを知るのが悟性であり、
こうして悟性が育っていくのを恐らく成長と言う。
その概念があって人は生きていると言えるのであり、
それを欠くことがあれば、人間性に不足があることになるのではないだろうか。」

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