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「お金」が全てとは思いたくない

「お金が全てなら、
人は自販機みたいなものでしょうか。
正直言ってそれではつまらないですよね。
人生はある意味でパラドックスの探索のようなものです。
思った通りにいかないことがよくあります。
それは何故そうなるのでしょう。
人間はお金で動く自動販売機なのでしょうか。
全面的にそうではないと思います。
しかし、その面はあります。
人の仕事とはお金に対してどれだけのパフォーマンスをそれが発揮するかという問題と関係が切っても切れません。
人をお金で評価と議論する必要はないまでも、
そうしていいとは言えるでしょう。
しかし、だからといってそうしていいのでしょうか。
別にしたいのなら、それはそれで構わないのですが、
何故そうなるのでしょう?
それには原因があります。
しかし、
私はその先入観から切れているのでしょうか。
案外そうでもないです。
しかし、それに従っている訳でもないです。
そう私が主張することも許されることではあるはずです。
では、ここでは何の問題を議論しているのでしょう?
私はそうではないと直言できないのです。
つまり、そうであるかも知れないと考えられます。
人がそうであらならば、
私がそうである可能性を排除できません。
そのことは蓋然性をもって表されても良いのです。
ところで、タブレットの操作は面倒ですね。
画面タッチでもそうですし、
キーボード操作でもそうですし、
音声入力でもそうでしょう。
人間にとって言葉を使うということ自体が煩瑣ではあるのです。
そう反証できますね。
つまり、私は自分はそうはないつもりでありながら、その反対にそうである可能的な自分も想定できます。
そのことは自分の能力の限界を考えれば、
明らかです。
その程度なのです。
人間とは。
しかし、それ自体は悪いことではありません。
別にそれなら、それで仕方ないことです。
人が人をお金で評価するなら、
私がそれをしてもいい、
それをしても許されます。
でも、何でもかんでもこんな当て推理で決められる訳でもありません。
そもそもそこまで考えてもいられません。
ある意味で人間の存在自体がパラドキシカルでもあります。
いずれこの世から飛び立つのに
現にはこの世に存在している。
そのこと自体が逆説的とは思えませんか?
そうであってもいいのです。
仮想的に好き勝手に脳内で鑑定することは
個人的な属性です。
しかし、オペレート中でなければの話しです。
もちろんですが。
ではここまでで何が言えたでしょう。
それは集中を妨げるものは外物的なものと
そうでないものとがあり、
また人間というものは案外、いい加減であると言うことです。
それで事足ります。
今回はそれくらいですね。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。」

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