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なぜ変えれないのか<前置き編>

思い立ったら残そう。

そう思ってキーボードを今、叩き始めました。

そのキッカケになったのがこのツイート

日本のアイスホッケーを変えようと思う若者よ
早朝7時前から熱いぞ、いいぞ、ガンバレ

と心から思う。

ただ、綺麗事や希望、未来、理想なんかでは何も変わらない。

そんな衰退していく業界や、いつしか消えていく改善活動家(私もほぼその一人)を数十年、何回も何人も見てきたから、個人のここまでの思いを文章に残そうと思った。

私にはそんな事ぐらいしかできないと思う。

少しでも参考になればそれでいいし、
こんなしょーもないnoteでも、ホッケーの事を書こうとする人間が一人でもキーボードを叩けば「もんじくん」のツイートも無駄ではなかった事になる(はず)

若かりし20代のボク

法政大学を奇跡的に4年で卒業した。
地元苫小牧に1番ノリで帰ってきた。
東京(人混み)が嫌だったから。

この時(2007年)はアイスホッケーの衰退とか普及とか、正直どうでも良かった。
自分が社会人でホッケーやれればいいやとしか考えてない時期だ。

仲間や先輩後輩がアジアリーグで頑張ってる。
そんな中でSEIBUの廃部は衝撃的だった。そっか~キツかったんだね。
そんなレベル。

なんたってボクは20代前半、衰退?普及?知らんがな世代。

えっ、マジでヤバいんじゃね?

そんな感情に初めて陥ったのは2012年6月
【王子スケートセンターの閉鎖】
今から10年前の話である。
さすがにこの事態に「アイスホッケーの衰退」というイメージがついた

話は変わり
つい数年前

こんなニュース映像を見て、他人事のように笑ってた
「感染症が流行ってんだ~こんな格好してまで麻雀したいかね笑」と。

まさか将来、自分の環境に影響するとは思っていない。

気が付けば日本、北海道、苫小牧とウィルスは蔓延し、
えっ、マジでヤバいんじゃね?と思った矢先に第一陣で自分が感染してた。

アイスホッケーの衰退に気が付いたのも一緒の感覚で
さすがに

良くも悪くも思い出のあるこのリンクを失うこと

少年期に目を輝かせて王子の選手を見ていたこの場所を失うこと

クタクタになって仲間と座り込んで休んでいたこの場所を失うこと

これらの事は衝撃だったのと同時に
マジか。ここまできてたんか。本当にヤバいな。

呑気な自分でも、さすがにそう思わざるを得なかった。

じゃ、B級を盛り上げたいな

それはただの安直な考えだった。

何をすればいいのか、現状がどうなっているのかも把握できず、ただただ自分の属するカテゴリーを盛り上げたいと思った。

なんたって自分が試合に出てるんだから。

普及の為にやっていたかどうかはよく覚えてないが、
大会前には個人のアカウントにて写真付きで苫小牧市役所IH部の試合日程をFacebookに投稿した。

以上。

我ながら安易すぎる。
ケツが青い。

日本のホッケーはもちろんのこと国内のB級にカスリ傷すらつけられず、ただただプレーヤーとして「見に来てね~」なんて、投稿するだけの時間を過ごした。

無論、一方で国内アイスホッケーはどんどん衰退していった。

じゃ、インラインホッケーを盛り上げたいな

当然、これも安直な考えだった。

なんたって自分が日本代表だったから。

確実に言えることは "ただの自己満" だった。

普及大会たるものを協力者の協力を得て行うも、自分がシュートコンテストで優勝して終了。

参加者も結局は"オトモダチ"だけ。

記事にある「毎年継続」
これも結果、口だけ目標となった。

更にインラインホッケーは前述の王子製紙スケートセンターの閉鎖により活動する場を失い、苫小牧から勢い良く衰退していった。

これは日本だけでなく国際的にも一緒で、IIHFの手からインラインホッケー部門は離れる事となった。

その後は独自チームを発足して仲間内でインラインホッケーを楽しくやるが、結局はこれもまた界隈の人間だけが満足する結果であり、何一つ業界に爪痕を残せずカテゴリーから離脱する事になる。

じゃ、指導者として盛り上げたいな

と、真剣に思うのはかなり後の話。

初めて監督をしたのが当時のマリアジャスパーズという女子アイスホッケーチーム

就任早々にチーム名を苫小牧NEXUSに変え、ロゴも自ら作成した。

この時、普及の目的は無く、チームをBカテゴリーからAカテゴリーにどうやって上げるかだけを考えていた。

その後は

中学生のコーチングや

高校生のコーチングも経験させてもらった。

それぞれ特性があるなぁと思うだけで、普及云々は無かった。

というか指導に携わる事が普及や貢献になれば良いんじゃね?
と、わけのわからない持論で都合良く消化していた。

更なる変化

以前のnoteで紹介した通り身近なところで言えばB級の在り方が変わり、自然とアジアリーグのチームも変わっていった。

幼い頃から憧れだった王子製紙のアイスホッケーは無くなり、プロチームとして生まれ変わった。

更にはデュアルキャリアたる「デュアル」で毎回噛みそうになるワードも横浜グリッツのアジアリーグ参戦により出てきた。

これを衰退と取るのか、進化と取るのか
正直わからないが間違いなく変化ではある。

現役世代がアイスホッケーを将来やる場、やりたい場
これが形を変えてでも、かろうじて国内に存在している事

ギリギリセーフ

という感覚である。

現在の立場と経験と実態

ご存知かと思うが、現在は本業サラリーマンであり"片手間"で道路建設ペリグリンの監督でもある。

"片手間"という表現が良いかどうかわからないが、監督業で生計を立てていない、立てられない現実から表現すると優先順位は完全に仕事であり、その合間の監督業だ。

またペリグリンについては小中学生時代から強豪であるのは知っていたし、実際に同級生が何人も所属していた。
氷上のスナイパーらしい久保英恵さんなんかは和光中学の2個上の先輩だ。
(一応、さん付けしておこう)

片手間と言えども、このチームを弱くするわけにはいかないし、もちろんペリグリンを衰退の波に乗せてはいけない。

更には少しでも今の立場や人脈を使って選手達に多くの良い進路を提案できるようにしてあげたい。

そう思って監督も4年目になる。

運営側(連盟)にワガママや文句は決して言わない。
(そう捉えられてるかもしれないけど‥)

ただ、これまでの経験から黙ってただ監督業をやっていても、女子のカテゴリ-にも必ず衰退の波が押し寄せる。

自己満の普及活動ではいけない。
コミュニケーション、提案、協調が必要。

そう思って色々と組織の特性や考え、現状を学び現在に至る。

監督を任されている間、決して女子カテゴリーの灯は消すわけにはいかない。

実際に感じてきた壁や問題、課題なんかを私が感じている部分を思うがままに綴るのは本編にて。

安心してください。

批判をするつもりはありませんよ。

では、また本編にて。


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