#1641 教育の根本・本質・原点
野口芳宏+各界識者9人による著書『ICTに負けてたまるか!人間教師としてのプライド』を読んだ。
この書籍を読み、「教育の根本・本質・原点」を改めて学ぶことができた。
以下にその学びを整理していく。
1 基礎・基本こそ不変・不動
「アクティブラーニング」
「主体的・対話的で深い学び」
「個別最適な学びと協働的な学び」
など、教育界では流行となる言葉が目まぐるしく変わる。
また、
「思考力・判断力・表現力」
「資質・能力」
「個性の重視」
「多様性の尊重」
なども、流行となる言葉だ。
しかし、上記のような部分は「上部構造」であり、重要なのはそれを支える「下部構造」部分である。
なぜなら、上記のような「上部構造」は、時代の流れや要請によって、可変的であるからだ。
このような部分は、学習指導要領改訂によって、内容が変化するわけである。
よって、時代の流れや要請に左右されない、不変的な「下部構造」部分が必要となる。
それこそがまさに「基礎・基本」なのである。
このような部分は、学習指導要領改訂でも内容が変化せず、そのまま残ることになる。
特に「読み・書き・そろばん」に代表されるように、「国語科」「算数科」教育では、このような「基礎・基本」がとても重要となる。
このような「不変・不動」である「基礎・基本」の習得なくして、「上部構造」は立脚しないのである。
しかし、これは全ての教科に当てはまるわけではない。
社会科の歴史教育が典型であるように、「学ぶべき基礎・基本」が時代によって変わる場合もあるのだ。
重要なことは、教師が思考停止に陥らずに、目の前の子どもの興味・関心に合う「指導すべき基礎・基本」「学ばせるべき内容」を吟味・選択することである。
このように、目の前の子どもたちのため、「何を取り上げるべきか」という問いを永遠と考えることが、教師には求められるのである。
2 「恩」の教育の再興
戦前の教育では、親への「恩」が美徳とされ、当然のように教育されてきた。
しかし現代では、そのような「孝心」の教育は、ほぼなされていない。
それが今の「子ども中心主義」をもたらしている。
「叱らない教育」が善とされ、それにより、「勝手気ままな子ども」「傍若無人な子ども」が量産されている。
これを打破するには、「親への恩」を善とする「孝心」の教育を再興する必要がある。
「親に心配をかけないこと」
「親が泣くようなことはしないこと」
「親を安心させること」
「親が喜ぶようなことをすること」
これらを考えることができれば、非行や不適切行動に走ることはないのである。
3 「教育」「指導」をためらわない
授業では、子どもが活動をしているが、緩みが存在する。
これは「授業あって指導なし」を意味する。
教師は「叱った」と言い張るが、子どもは何も変わっていない。
これは「指導あって教育なし」を意味する。
長い期間を経て研究を終えたが、終わった後に学校全体が荒れる。
これは「教育あって人間形成なし」を意味する。
これらは
「有名無実」
「仏作って魂入れず」
とまとめることができる。
教師は、自己の教育活動を「伝達レベル」で終わらせてはいけない。
教育活動の相手である「子ども」の「向上的変容」を保障してあげなければいけない。
そのためには「感化・影響レベル」の教育活動をする必要があるのだ。
「授業をした」
「指導をした」
「教育をした」
と口だけで終わらせてはいけない。
子ども一人ひとりの「人間形成」「向上的変容」を実現しなければならないのである。
4 主体性よりも受動性を
「主体性」「自主性」が教育界の流行となっている。
しかし、主体性・自主性の中には、「相手」や「他者」の存在が皆無である。
これでは「独りよがり」となってしまう。
人生では、
「他者の力を借りること」
「他者からの仕事を引き受けること」
の方がかなり多い。
「受け身」「受動性」は「怠惰」と同一視されがちだ。
しかし、「真の受動性」とは、「自力」という小ざかしを捨てて、「他力」という自然の力に身を委ねることなのである。
「周りに流される」のではなく、「引き受ける」ことが重要なのである。
そして、授業という場においては、教師も「主体」となり、子どもも「主体」となり、「教材・学習材」という相手と向かい合っていくのである。
5 「教えるためらい」「子どもへの過信」をなくす
「教師がいらない授業」
「教師の出番を少なくする」
「子どもを叱らない」
「子どもの能力を尊重する」
という言葉がもてはやされている。
これが続けば、放任・黙認が常態化していく。
しかし、根本的に子どもは「未熟」な存在であることを認識する必要がある。
だからこそ、教師は教えたり、叱ったりするのを躊躇してはいけないのである。
教育における不易の原理は以下である。
➀教師による優れた指導・フィードバック
②子どもの➀の受容と努力
③そのときに必要な課題・教材の提示
つまり「教師」「子ども」「教材」という三項が必要であり、これこそが教育の原理なのである。
教師の指導(➀)だけで、それを子どもが受容(②)しなければ意味がない。
また、子どもの努力(②)だけで、教師のフィードバック(➀)がなければ意味がない。
さらに、両者の間に適切な課題や教材(③)がなければ意味がないのだ。
そして、重要なことは「教えっぱなし」「叱りっぱなし」にしないことである。
教えるときには、子どもが「教わりたい」と思えるように、子どもに「不備・不足・不十分」を気づかせたり、意欲づけのために語ったりする。
つまり「事前指導」をするわけである。
また、叱ったあとはフォローを入りたり、できたことをほめたりする。
つまり「事後指導」をするわけである。
このように、「事前指導」をした上で教えたり、叱ったあとに「事後指導」をしたりすれば、それらをためらう必要はないのである。
6 憧れる「師」をもつ
自分が教育実践をしていく上では、教師として自分が憧れる「師」をもつことが重要である。
実際に会うことができなくても、「読書」をして出会うこともできる。
しかし、「つまみ食い」はよくない。
少し学んではあちら、また少しつまみ食いしてはこちらと、ゆれ動く人は逆に視野が狭くなる。
「わかったつもり」になり、「自分に合わない」とすぐに離れてしまう。
重要なのは、「特定の憧れる師」を決めることである。
その「師」を追い求めることで、「師」の読む本や会う人、ものの見方・考え方に触れることができる。
なので、「視野が狭く」なるどころか「視野が広く」なっていくのだ。
7 「自分中心・自分本位」ではなく「相手中心・相手本位」に
子どもはときに、「しない」「やりたくない」という言葉を発する。
そのときに現代の教師は、次のような言葉を思い浮かべてしまう。
「子どもの自己選択・自己決定を尊重するべき」
「多様性を認めるべき」
「教師の価値観を押し付けるべきではない」
この言葉を、教師が「自分中心・自分本位」で受け止めてしまうと、子どもへの指導をためらうことになる。
教師はこのような「逃げ」に陥ってはいけない。
「なぜしようとしないのか」という背景を考える。
「なぜしたくないのか」という理由を聞く。
する方が子どもにプラスになるので、説得してみる。
それでもダメなら、しないことを認める。
このような姿勢こそ、「相手中心・相手本位」なのである。
巷に溢れる言葉・言説を、自分にとって都合のいいように解釈してはいけない。
常に「子どものため」「相手中心」で物事を解釈・判断することが求められる。
以上、この書籍を読み、「教育の根本・本質・原点」を学び直すことができた。
これらを胸に刻み、今後の教育実践に生かしていきたい。
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