芸術家にとっての衆愚制

 神とパトロン。これらを失って以降の芸術には、完全性と健全性が欠けている。主義というより呪いというべきロマンティシズムの音楽は、ベートーベン以前の物質的自立性を超えて弾き手・聴き手の精神を浸食するし(バロック音楽を愛するパスカル・キニャールのことを思い出さずにはいられない)、絵画についてはその色彩、コントラスト、筆致をみれば図像学を追わなくとも明らかであろう(フォーヴィズムという魅惑的で恐ろしい言葉!)。モダニズム建築は健全性を欠いているし、彫刻については完全ですらない(例えば宇部のときわミュージアムを訪れるとよい。心を穏やかにする彫刻はひとつとしてない。穏やかとなるなら、それらは単に今風景である)。神は作品に完全性を、芸術家に精神の安寧を与えた。パトロンは世俗的支援によって芸術家の物質的な健全性に寄与し、また僅かながら精神の安寧さえ与えたであろう(芸術に"理解"のある者)。芸術家の健全さは作品が完全性を持つための条件である。学問と芸術の保護者としての貴族とは市民革命後の芸術家がその代替物を追い求めた幻影であるが、2020年代にさしかかる今もなお芸術家たちが満足しているとは言い難い。まさか『国家』や『国際機関』などと言う者はこの文章を読んではいないだろうが。

 我々の時代の芸術家は民主主義改め衆愚制のプロジェクト、その終端にさしかかっており、民主主義国家においては当然のことながらその一員であることを余儀なくされている。(ニーチェ的な意味ではなく歴史的事象としての)貴族気取りの自発的奴隷(これにはニーチェ的ニュアンスを含む)たちは大きな声を上げる、もしくは声を集めて大きくすればそれ自体がなにか本質的価値を持つと錯誤しており、その邪悪な合唱はその忌々しい力によって芸術家を単に精神的に苦悩させるのみならず、社会制度と自由な個々人のフィードバックループによって、世俗的な健全性の伸張をも疎外する。この点を鑑みるに、某芸術家が非自由主義国家における現代アートの丁重なもてなしぶりを羨み、翻って我が国の状況に心を痛めたことは、素朴な心情の吐露であったのだろう。本性として反民主主義的である芸術家(『民主主義的芸術家』というのは語義上、民主主義のプロパガンダ協力者以上のものではない)は、このような時代にいかに生存しうるのだろうか。

 ソ連の社会主義リアリズムに基づく肖像画のグロテスクさは、そのおぞましい完全性と健全性の裏にある神のグロテスクさである。形而上学と唯物論の意図的な取り違えで生みだされたデウス・エクス・マキナは、直視するに耐えうるものではない。芸術家が国家を神として戴くことは崩壊した壁の向こうにひっそりとぶら下がっている残影を追うことである。国家とは国民に実存的な完全性と健全性の提供をしたがるものではあるが、それはどんな体制の国家であっても常に歪であり、虚偽である。有限な構成部分に分解できるものは神ではない、とはライプニッツの示唆するところである。

 完全性を失った芸術の根源を『働きかけ』に求めるなら、衆愚制においては、(既に実践する集団が存在するように)芸術の弾圧こそが芸術家に残された使命なのかもしれない。もはや真なるものを供するに足る人間など残っていないのだから、野蛮な反語的問いかけこそが革命的である。そこでは芸術家には十全に健全さが確保される。自分を認めるに足る人間は存在しないのだからその点に悩む必要はないし、芸術を破壊するために「芸術家然」とした生活を営むこともしなくていい。ハンマーとガソリン、ライターさえあれば芸術家としてやっていけるのだから、普通に働けば十分だ。だがこの進路に多くのものは首肯しないだろう。大体借り物の思想で芸術を形成することが成功した試しはないのだから。

 延命をさせるつもりで芸術の歴史に乗るならば、芸術家はいよいよ衆愚制と正面から向き合わなければならない。理解されないことを承知で真なるものを供さねばならない。この試みは痛みを伴う。芸術に与する人間の精神科通いは珍しくなくなってしまった。民主主義に限定せずとも、神なき時代の芸術家に備わっている反体制的精神は当然の帰結ではあるが、強靭無比な生存連鎖保存システムである国家の申し子たる国民と対立することになる。世界からの疎外とは全くもって具体的な事態である。精神の頑健さは必需であるが、一人で耐える必要はない。

 かくして同好の士によるコミュニティが形成される。芸術家の確たる理解者は芸術家だけになってしまった。無論芸術家は一人一派であるから個々の芸術家との思想的な全面講和など望むべくもないが、しかし対立というかたちで紐帯できるだけましで、無視という残酷な力をまともに食らうよりは良いだろう。残るは常に世俗、世俗の問題なのだ。芸術家がパトロンを兼ねられるような牧歌的時代ではない(そんなことが可能な時代はそもそも牧歌的ではないが)。良き家に生まれよ。良き人を見つけよ。良き商人であれ。世俗のことは常に具体的な事態であり、ここで書けることはそれくらいしかない。ここへ至って我々は個人事業主になることを迫られている。健全性とは健全な経理であり、健全な経営の第一は精神の健康である。手近なところから始めるとするならば、SNSの収支を冷徹に計算すべきである。利益が損失を上回るならば続けるべきだし、逆ならば一刻も早く止めるべきだ。SNSという事業領域は芸術家にとってサブもサブであり、サンクコストを垂れ流しにし続ける価値のあるものではない。芸術家は皆精神と世俗の経営者であることをゆめゆめ忘れてはならない。あとは労働経済学の問題である。

 神なき時代に真なるものを手に入れることは難しい。厳密には不可能と言っていい。王権神授説と革命の不適切なアナロジーを強弁するなら、ここには神の代理人が多すぎるのだ。神たちは移り気だ。あるときは苛烈で、あるときはいじましいくらい萎縮している。しかし、逆に言えば芸術家が一人の理解者を手に入れることができたなら、それは真なるものへの第一歩を踏み出せたことを意味しうるかもしれない。働きかけが現代にありうる唯一の芸術というわけではないし、他の誰にも理解されなくとも、芸術家自身だって神の一人なのだ。全ての人間がフェルディナン・シュヴァルになることを私は望んでいる。

 ストラヴィンスキーが言うところの「芸術は監督され、制限され、 加工される事が多ければ多いほど、 自由になる」を曲解するならば、衆愚制こそはもっとも芸術に対して残酷であるがゆえにもっとも芸術を輝かせうる条件である。芸術家が必ずしも神やパトロンを取り戻す必要はない。芸術が必ずしも完全性や健全性を取り戻す必要はないのと同様に。芸術の状況が悪化していくのを嘆くのは「芸術」愛好家の領分であって芸術家の領分ではない。マゾヒストになる必要さえない。芸術家は最悪の条件を求めるために衆愚制を支持するべきである。

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