見出し画像

分かれていく真言密教

空海が唐に渡って密教を日本に持ち帰りますが、それらはずっと継承されてきた叡智でした。

その後も留学する者が続き、どんどんに日本に叡智が入ってきます。
そして、真言密教の中でも、益信を祖する広沢流と、聖宝を祖とする小野流の2つに分れました。

広沢流は貴族出身の僧侶が多く、形式を重んじていました。
小野流は庶民出身の僧侶が多く、修行によって力を高めることを重視しました。
ちなみに立川流の文観は小野流の出です。

聖宝は吉野で修行をし、醍醐寺を建立しました。
これは修験道の当山派の総本山になります。

雨を呼ぶのが得意で雨僧正と呼ばれた仁海が有名ですが、冥界を旅した道賢もその教えを受けました。

空海が開いた高野山は東寺との争いに敗れた上に火災もあったため、勢力が落ちていました。
それも覚鑁によって12世紀初めに変化します。
様々な修行を積んで法力を鍛えた彼は当時からの独立を考え、山を去りました。
そして根来寺に新義真言宗を興こします。

密教の立場から阿弥陀仏の念仏を説いたわけですが、根来寺は戦国時代になって、一向宗とともに織田信長を悩ませたことでも有名です。

こうして真言密教は次第に分かれていき、最終的には 百数十派とも言われています 。

宗教が生まれてから弟子によって様々な考え方が加えられていき、弟子同士で違いもあり、派閥は増えていきました。
現代となっては複雑に感じるかもしれませんが、歴史を紐解けばその背景はそこまで難しくないと思います。
そのような背景も含めて見えない世界について学んでいくことが大切です。
興味のある方は是非一緒に頑張りましょう。


これからも良い記事を書いていきます。