「記念日反応」を越えていく

大切な気づきをひとつシェア。

「記念日反応」への理解が深まることがあったので、ここに書いておきたい。

「記念日反応」というのは、もともとグリーフにおける専門用語&概念で、死別や離別、喪失経験をした人が、その失った対象との間にある記念日(命日、誕生日、結婚記念日、離婚した日、運動会や成人式などの行事、年末年始 etc.)のあたりに、体調をくずしたり、心が沈んだり、グリーフの反応が起きることをさす。

でも「記念日反応」というと、どうしても、言葉のイメージが狭くて違和感があった。

死別の場合は特に「命日反応」と言われるぐらい、命日ばかりに注目されるし。
もちろん、それさえ、世の中には「もう●年経ってるんだから大丈夫でしょう」という誤解があったりするが。

また「記念日」というと、「日」単位な感じで「シーズン」(季節・四季とも限らない)やったり、「時期」やったりが見過ごされている感じもした。

たとえば、「闘病生活が始まった頃から、なくなるまで」とか、つきあったり、結婚したりしていた人たちは「『別れ話』をはじめてから、別れるまで」といった、そのプロセスがあった「期間」にグリーフを感じて反応を起こすということがあるのだろうと思う。「◯年前の今頃、はじまったな」とか。

「記念日」には「プロセス」が含まれているニュアンスがない。

でも桜が咲いたときに「あぁ、おばあちゃんと最後に一緒に歩いたなぁ」とか「受験シーズン」に入って「なくなったあの子が今生きていたら、一生懸命勉強していただろうな」と思ったりとか。

これは新しい言葉を生み出さなければいけないし、研究者というのはそういうのを生み出していく役割なのだろうと思う。理論をつくるということもつながっている。

「研究」と「仕事」は別のものではない、ということに昨日気づかせてもらったので、改めてこのあたりも、いつか探求してみたいと思う。実感があるからこその研究視座。

そして、それが喪失を経験した人にとって「あぁ、自分だけやなかった」とか「自分を理解してくれる人がいるんだ」ということを感じてもらえることにつながっていけばと願う。

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