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井坂康志さんの魂の朗読 〜 「ドストエフスキーとアリョーシャの魂に出会う」 〜星の時間


2020年に井坂康志というドラッカー学者と出会った。

経営の神様、マネジメントの神様とドラッカーを崇めていた経営層が何も変わらないことに、正直ドラッカーへの期待を無くしていたが、

ドラッカーという人間の知性をその源流を、文学や芸術的な知性を持ち出しながら語る井坂さんに出会ってからその意識が変わった。

井坂康志さんを通して、初めてドラッカーを知ったのだ。

誰から学ぶか、それが極めて大事なことの、典型的な事例かもしれない。

井坂さんに惹かれたのは、もう一つある。

それは、講義の語り口の中でキリスト教、聖書の知識が随所に出てくるところだ。

あるドラッカー講座の中で、聖書のヨハネ伝の「はじめに言葉があった・・」という聖句が出てきた時には、ハッとした。

そして、生態学者としての客観性故に信仰的な一面を見せなかったドラッカーが唯一論文にした『もう一人のキルケゴール  / すでに起こった未来 』をも井坂さんは大切な箇所として取り上げた。

これは、ドラッカーの源流にはキリスト信仰的なものがしっかりあることを看取して井坂さんが取り扱ってくれていることでもあるが、
ドラッカーが、その秘めた信仰の部分をキルケゴールの箇所ですら完全に表現しないように、井坂さんも同じように、そこは”不記”としているようだ。
ここにもドラッカーと井坂さんが重なる。笑

私は、8年間、プロテスタントのキリスト教会に関わり少し聖書を齧ってはいる。
しかし、井坂さんのキリスト教、聖書の知識は、私などのレベルを遥かに超える博識なのだ。これは、西洋の哲学者や思想家を研究する上では、当然のレベルなのかもしれないが、ここに井坂さんの本物を見たのだった。

その井坂さんが、2020年の年末からドラッカー講座の前座として朗読を始めるようになった。
これは、ドラッカーの心の友であったマクルーハンの読書会に参加していた人だけが分かることだが、古代ギリシャのソフィストが活躍していた頃からの耳人間への復興を、今この時代に果たすための企みなのだ。

夏目漱石や小泉八雲、萩原朔太郎などの日本文学者の朗読をする一方で、ヘルマヘッセ、ゲーテなどの西洋文学も披露してくれた。

facebook『渋ドラ』の中で、「ドストエフスキー」をやると井坂さんは公言していたので、
『渋ドラ』は、渋沢栄一とドラッカーを研究する大人たちのゼミであり知の温泉場

「『カラマーゾフの兄弟』なども、全部朗読として聞きたいですね。」

そのように私が投稿すると、

無論、その全てを朗読する!

と返ってきたので、

ええーー あのカラマーゾフの全てを!と驚愕したのだった。



そして、昨日の朗読会は、『人類の星の時間  /  シュテファン・ツヴァイク』の「壮烈な瞬間」という章であった。


これは、政治犯として投獄されたドストエフスキーが処刑寸前で特赦の知らせを受け死を免れた、その心の内を書いたものだ。

早くも
一人のコサック兵が急いで来て
彼の銃口が見えないように彼の眼を布でかくそうとした。
そのときーーもうこれが見おさめだと感じながらーー
眼が見えなくなる前に 一と目だけ彼はむさぼり見た
空の光が彼に示している
外界の小さな断片を。
朝の光にきらめく聖堂を彼は見た。
眼のための最後の聖餐礼のように
聖堂の円屋根は
神々しい朝の紅らみに
照りかがやいた。
そして彼の心は突如と浄福感にあふれて
あだかも死後の神のいのちをつかもうとするかのように
円屋根に向かって高まった・・・

これは、処刑を前にした死の瞬間のドストエフスキーの美しい心の内である


そして、次の瞬間、処刑中止の恩赦を士官が叫ぶのを聞く

彼の眼の力はよろめきながら 墓穴の中から上がって来て
目まいを感じてよわよわしく 不器用に手さぐる
もう諦めていた人生の中を
今ひとたび。

そしてそのとき 彼は見るー
今や高く昇っている朝日の中に
神秘に光る
おなじ聖堂の 金いろの屋根を。

朝の光の 熟した薔薇いろが
敬虔な祈りのように その屋根をつつみ
きらきら光玉葱の形の円屋根
その十字架を 一本の聖なる剣のように
歓喜に紅らむ雲の中に立てている。
そして向こうの空では 朝の光の歓呼の中に
聖堂を超えてその上に 神の円屋根が大きくなる。
光の
一つの流れが そのきらめく波を
天の四方八方に投げる。

死を覚悟した瞬間にみた聖堂の円屋根、処刑を免れた後の聖堂の円屋根

死と生の間、この奇蹟の瞬間にみる美しい光景に、朗読を聞きながら涙がうっすらと流れてきた。

ドストエフスキーは、この奇跡とも言える星の時間、カイロス的な瞬間の中で、美しい神の存在をみたのだ。


そして、ついに『カラマーゾフの兄弟』の朗読となった。

朗読箇所は、ゾシマ長老の死に面して、アリョーシャが「ガリラヤのカナ」の婚礼の夢(ヨハネ福音書2章)の場面をみるシーン

聖人と言われたゾシマ長老の遺体から腐臭が立ち込める

その腐臭漂う庵室でアリョーシャは、僧が聖書を朗読するのを聞く

ヨハネ福音書2章、ガリラヤのカナでキリストが最初にやった奇蹟の場面

カナの町では婚礼があり、キリストも母マリアと参加する。
ところが婚礼の途中でぶどう酒がなくなる。
母がキリストに「ぶどう酒がありません」と言う。
キリストは水がめに水を汲むように命じると水が良いぶどう酒に変わる

アリョーシャは僧の聖書の朗読を聞きながら夢をみる。。

「キリストがはじめて奇蹟をおこなうにあたって、人間の悲しみではなく喜びを訪れた。人間の喜びを助けた。・・・そして真実で美しいものは、一切を許すという気持ちにみちている。・・それはあの人、ゾシマ長老の言われたことだ」と夢の中で思い始めるのである。


アリョーシャは、夢の中で、カナの婚礼の場にいるゾシマ長老に出会う。
そして、ゾシマ長老が愛弟子のアリョーシャに生前語っていたこと。
僧院から出て行きなさい。厳しい世界に行きなさい。背中を押される夢を見るのだ。

そして、新しい酒を飲もう。偉大な新しい喜びの酒を酌もう。
はじめるがよい、せがれ、自分の仕事をはじめるがよい。
お前にはあの方の太陽が見えるか。お前にはあのおかたがみえるか


ここで、アリョーシャは目が覚める。
 

「ふいに足でも萎えたかのように地上にがばと身を投じた。彼はなんのために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地に接吻したいという押さえがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することが出来なかった。しかし、彼は泣きながら接吻した。大地を涙でうるおした。そして自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった」
「彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がったときは生涯ゆらぐことのない堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然とこれを自覚した。アリョーシャはその後一生の間、この瞬間をどうしても忘れることが出来なかった。あのとき誰かがぼくの魂を訪れたような気がする」


朗読の間、なぜ、今『カラマーゾフの兄弟』を自分は聞いているのか

その意味を考えていた。

私は、キリスト教という信仰を持ってはいたが、そこから少し離れようとしていた。

新しい風の時代に向かって、新しい知性を求めて、自分の関心や興味の赴くままに世界を広げようとしている。

しかしながら、ただ知性だけを求めていて、それでいいのか?
そう問われた気がした。

先のドストエフスキーは、死と生の間の瞬間の美しい情景の中に神の存在をみた。

このアリョーシャは、ゾシマ長老の死から、新しい希望を見つけたのだ。
それは、大地を抱擁し接吻するような、全てと繋がる全感覚の中で見つけたのだ。

井坂さんは、この『カラマーゾフの兄弟』を朗読するに当たってこう言った。

「信仰と知性の間に」 

知性に向かうためには、この信仰的な部分、キリスト教でないにしろ、大いなるものの存在を感じる畏敬の感覚、このような宗教感覚に根を張らねば、どこかにフワフアと飛んで言ってしまうのではないか。

それが直感として、なぜ、今、自分はこの『カラマーゾフの兄弟』を聞いているのか。その意味が立ち上がってきた。

この朗読により、自分にとっての人生のあり方というべきものが分かったのだ。

この今の瞬間こそ、シュテファン・ツヴァイクが「星の時間」と言ったものではなかったか。


時間を超えてつづく決定が、或る一定の日付の中に、或るひとときの中に、しばしばただ1分間の中に圧縮されるそんな劇的な緊密の時間、運命を孕むそんな時間は、個人の一生の中でも歴史の経路の中でも稀にしかない。
こんな星の時間ーーがそう名づけるのは、そんな時間は星のように光を放ってそして不易に、無常変転の闇の上に照からである。
『人類の星の時間』シュテファン・ツヴァイク


朗読の後に、私がこのような感想を述べると、

井坂さんは私の発言に感応してくれ、予定を変更した。

『カラマーゾフの兄弟』「大審問官」の箇所を朗読してくれた。

『カラマーゾフの兄弟』の中で最も肝となる箇所であり、無神論者であるアリョーシャの兄のイワンが、ある物語「大審問官がイエスキリストに、キリスト自身の信仰を問い続ける」を語り続ける場面。

人はパンのみに生きるにあらず。されど、パンがなけれ生きていけない。
イエスの十字架により”自由”を手にした人間が、自由でいることより、神=イエス以外への服従を選択してしまう、この悲劇と喜劇をイワンが大審問官を通して、沈黙するイエスに問い続ける。

自由とは何か。幸せとは何か。そこに向き合うべき信仰的な精神、大いなるものに繋がる宗教性やその在り方とは、は何か。

井坂さんは、この「大審問官」の箇所を全霊を込めて朗読して下さった。

そして、クリスチャンであろうが、そうでなかろうが、ドストエフスキーによる普遍的な問いを参加者に投げかけて、大いなる星の時間となったのだ。

井坂さん、本当にありがとうございました。

そして、事務局サポートの佐々木秀ちゃんも、いつもありがとう。



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