経験の細かさについて

 ある時授業で、「知的直観」は「感性的直観」と違って、いわば豆腐を風呂敷で包むようなもの、整理整頓ができない人はこっち向きなんじゃないですかね、という話がなされたのだが、これはよくわかるところがある。
 組み木細工も子供のようにガチャガチャやってたらどこかが解けて一挙に解体できるようなことがあるが、私の人生は概ねそのようなどんぶり勘定である。当然今所有している金銭を把握していないし、支出も管理しない。かなり年齢が長じるまで靴紐が結べなかったし、未だ部屋の汚さには相当の自信がある。だから、あながちカントの図式も馬鹿にできないくらいには実用的に使えるものであって、あの大まかな図式と純粋悟性概念のカテゴリー表を頭に入れるだけでも「整理整頓」にはなる。
 カントはまさに整理整頓の配置型の図式で『純粋理性批判』を書いたが、のちに続いたドイツロマン主義のシェリングなどは、カントが否定したさきの「知的直観」を認め、活用したらしい。知的直観とは、通常考えられるように感性的な情報が触発によって発生するといったものではなく、感性の上位能力である悟性(知性)が感性を介さずに直接「概念」を直観するという、ややイデア論に近いものである。
 シェリングは10代半ばで初期の論文を書き若かりし頃に既にゲーテに認められていた天才肌の哲学者であり、そうであったからか、後年は一切著述しなくなり、神秘主義に向かった。そうしたいわばドーパミン過剰でゲート機構のぶっ壊れたような人なので活動態が直観できたと言われる、ということは言えると思う。
 問題は、世の中にはさしたる才能もないのに知的直観型の人間が少なからずいるということである。自閉症でも分裂圏でも視床のゲート機構には異常が出やすいものであるが、その名の通り情報を取捨選択するところなので、だいたい人を見ているとそこに異常がありそうな人はわかる。そこで「経験の細かさ」の問題になるのである。万事どんぶり勘定の経験を送る人は、だいたい他人を捉える時の捉え方も粗雑である。そうして、たいてい、例えば本を読む時などに情報の取捨選択ができず、全ての文字列に線を引いていることなどがある。すなわち開かれすぎているのである。そうするとたいてい、そういう者は感覚過敏でもあり、他人との付き合い方がうまくいかないのに傷つきやすいという事態が発生する。
 だいたいこのことについては解決策は明らかである。この場合、経験の、細かく言えば感情と行為をそれぞれ細かくするように自己形成していくのがよい。例えば私などは、かつては感情を嫌悪しており、恐怖感と快楽以外の感情がよくわからずに生きていたが、あの直情的な田中角栄の映像や言葉に触れたことで「情動」の共鳴というものが掴めるようになった。角栄はまだきわめて直情的で細かくなっていないが、この共鳴の感覚を手掛かりに新たなモードを文化的に継承されてきたものから、具体的には多くの文脈を持つ文章や経験から、学習して身体化しなければならないのである。だから、文脈が重要なのであって、言われているようにたんに言語体系に位置づけられた単語の持つ喚起力だけに頼って、言語化することで感情や無意識を細かくしようとしても、あまりそれはうまくいかない。それはむしろ既に開発されている感情に言葉を当てるだけの作業である。
 パターン化された行為をより細やかな方へと学習していくということもある。私は長らく靴紐が結べなかったが、年齢が長じてようやく結べるようになった。しかし、結び方を「わかって」「知って」「認識して」結べるわけではない。これが通常のことである。しかし、一事が万事そううまくいけば苦労しないのであって、そもそもうまくチューニングできない人間が場数だけでは人間関係などには適応できない。私の観測したかぎり、一段深い思考をする人よりも、むしろ粗略化と呼べるほどシンプルに速断する認識をする人の方が、パターン化ができており、ある意味での共感なき擬態が上手い。それをより細やかにしていくときに、知情意渾然一体となった学習は通常文学作品を通して行われるのであるが、そうではなくて、予めパッケージングされた「倫理」の学習を通じて細かくしていくことも有効な適応戦略の一つである。

 語彙が豊富で、多くの言い回しを身に着けていても経験が全くそれに対応していない人は少なくないように見受ける。まさか保険金目当てで婚姻関係を結ぶわけはないのだから、プロセスとしての生存のさなかにある経験こそが我々の豊かさなのである。考えてもみれば贅沢なもので、たんなる遺伝子の乗り物であればこのような余りある余剰はいわば生命の余白である。その余白に何が書き込まれるかは、まさに自分の経験にかかっているのである。

2024年1月18日

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