てると

物を書きます

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主体の<法>【更新:2024/2/29】

 私は最近、専らフロイト、ユング、ラカンの精神分析に傾倒しているが、なにより現代思想に最大の影響を及ぼしたのはラカンである。当然、市井におけるユング受容の広範さや創始者フロイトの執拗な理論形成というのも絶対に重要なのであるが、やはりラカンを通過しないことには諸々の言説の理解が追いつかないように思想文化が形成されている。だから、今回書く文章は最近勉強しているラカンとユングの記述したところのものからの影響が大半を占めることになる。ラカンの理論の中心概念は「父のノン」と呼ばれるもの

    • 神と陰謀の分析論

       わたしは10年来「陰謀論的世界観」に住んできた。2022年7月8日の出来事はその転換点となったが、未だわたしの戦後レジームは決着をみていない。  そこでわたしは、その心的構造を明らかにしようとつとめた。そうしたところ、これから書いていくような現象が明らかになったので、報告する。 「陰謀論的世界観」のあらまし  2022年7月8日、その時わたしは新大塚の精神科への通院を終え大学に向かうべく丸ノ内線の車内に座っていた。そうしたところ、Twitter(現X)で というニュー

      • 存在と感情の補償についての考察~癒しの知足論~

         かつてマルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と書き付けたが、当時アヘンは「痛み止め」であった。しかるに、このような痛み止めは、内在的生においては活用すべき作用として現象する。今回はこのことについて掘り下げてみたい。 存在の補償  ハイデガーの議論に、実存論的な死の議論があるが、ここでは「非本来性」と「本来性」が論じられる。そこでハイデガーの議論を援用しつつ、あくまでも私の見解を述べると、私の死の現象は、道具連関としての世界の連関における自己の不在である。死後に私はいない

        • 自他の多義性について

          自他の多義性  自己/他者が多義的であるという事態については、端的には了解されやすい。そこで、ああでもないこうでもない、或いはああでもあるこうでもあるというように言い換える戦略が取られることがある。これが解釈の多義性という事態である。しかし、私の考えとしては、これはどこか言語論理の無理があらわれている事態である。言語などという不出来なものに過重な期待をかけるとどこか無理がくる。しかし、ここで私のいつもの習癖に則って、さらに一段深く考察してみたい。では、数式や科学的定式化、イ

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        主体の<法>【更新:2024/2/29】

          都市という経験~狭さと受肉のリアリティ~

           私が東京都文京区に引っ越したのは2022年9月のことなので、それからはや1年半になる。その間に、私の現実性は佐賀県唐津市を離れ、徐々に、或いは急速に、都市化していったと思う。今回はその過程で得た「都市経験」について、実感と観測から書けることを書こうと思う。 人と倫理と聴覚経験  人口が密集すると「倫理」が生起する。これは私の言葉ではなく、哲学者河本英夫の受け売りであるが、言い得て妙であろうと思う。東京に住むとわかるが、地方とは違い、部屋にいても外にいてもつねに「人」を感

          都市という経験~狭さと受肉のリアリティ~

          <教養=神化>するロマン主義-神話における自己意識の発生

          an sichすなわち即自=活動態と神話の自己意識  かつての西欧で「教養」に近しいような概念としては、「culture」があった。これはラテン語の「colere」由来であり、これは「耕す」という意味合いが強かった。  ここで太宰が使用しているような、動詞として「カルチベートする/される」というニュアンスが元来の概念に近い。ローマの散文家などの用法がよく引用されるが、ギリシアと異なり農耕文明の様相の強かったローマでは、好んで使われていたとみなして差し支えないだろう。  現

          <教養=神化>するロマン主義-神話における自己意識の発生

          ゆく河の流れとよどみの安眠術

          「エンターテイナーていうのは「人を楽しませる」ということやっけん」とは、私の父が私によく言い聞かせてくれた言葉であるが、私はその「人を楽しませる」とは、たんなるお笑いでは済まされない、或いは済んではならないと思っている。冒頭の文章を書いた河本英夫も、 「現実感について」 という特別講義でエンターテイナーであり続けているが、「(太陽に近づきでもしたら)人間の目玉焼きいっちょ上がり」と言っているシーンよりも、「男ってそのくらい弱いの!」と笑顔で述べているシーンこそが、この「エン

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          書評:『構造と力-記号論を超えて-』~「現代思想」の流動論~

           1月31日、私は池袋のジュンク堂で、文庫化された浅田彰著の『構造と力』を購入した。私がまだ所謂「現代思想」のことを右も左もわからなかった頃に本書の読書会などを開いてくださった先輩もいたので、ずっと気になってはいたのである。そこで数日かけて読んだのであるが、非常にテンポよい文章で小気味よかったので享楽的に読めた。本書は1983年に出版され、所謂「ニューアカデミズム」=ニューアカブームを起こした本であるし、執筆センスがあったことは確かだろう。多くの若者の人生を誤らせた一冊でもあ

          書評:『構造と力-記号論を超えて-』~「現代思想」の流動論~

          自主的反省の限界感覚

           久々に自ら考えてみようと思い立った。最近はこのモード、いわば近代人的なモードが鈍っているように思う。初期ロマン派には概して「無限の反省」というレッテルが貼られるが、これは概して苦しいのだ。結局これはあのカントの言うところの「理性」にタガをはめる「法」が切断された状態なのだ。「文章は発話の写し」とは考えられないし、「思考の写し」とも考えられない。文章ほど明瞭な内界が予めあるとは思えない。恐らく書くことにおいて自主規制をしているようなところが人間にはある。だから、この文章の機能

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          母性の精神分析~家族像のローカリズムと吉本隆明の着眼点~

           しばらく前の講義で河本英夫教授に「(お前は)対象aわかるか?」と聞かれ、躊躇した末に「わかりませんね」と答えたところ、「わからない?なんか見えないようにしてんね」と笑いながら言われたが、これがなにか事態を端的に表しているように思えるのである。  というのは、多くの人は言語構造(ネットワーク)の方の秩序で精神を安定化させているが、どうやら私は対象aで安定化させているそうである。だから、授業では、他の人への配慮からあまり深いことまでは言えないと言っていた。ジャック・ラカンの議論

          母性の精神分析~家族像のローカリズムと吉本隆明の着眼点~

          経験的身体の自己形成について

           他者の顔に最もよく表れるのは、その張り出された表情である。しかし実際には心にもない表情はすぐに全身体からくる違和感をもって見え透いたものとなる。これは、無意識や身体性の全経験に対して、自意識が過剰に無理をしている場合でも同じことである。  つまり私は、これら様々な記事でハビトゥスや経験について扱ってきたが、言わなければならなかったことは、経験的身体と自意識の乖離が精神に無理をかけてしまうということである。この「自意識」は、或いはモードとして「美意識」も含まれている。すなわ

          経験的身体の自己形成について

          他者論に関する私小説的考察

           「人口が密集すると倫理が生起する」とは、哲学者河本英夫の言葉であるが、ここで言う「倫理」とは、未だ田舎に残存するような自他の区別なく熱い良心をありがた迷惑のように注ぐ道徳心のことではなく、また、やはり田舎の上層に残存する封建道徳的倫理ではなく、やはり都市人の「他者論」的ふるまいの様式のことであろう。語義的に「倫-理」には、漢字の字面から直感的に理解できるように、秩序と欲望の関係において、けじめをつけることによって欲望を制約するような秩序的含意がある。だから、「高校倫理」のよ

          他者論に関する私小説的考察

          経験の細かさについて

           ある時授業で、「知的直観」は「感性的直観」と違って、いわば豆腐を風呂敷で包むようなもの、整理整頓ができない人はこっち向きなんじゃないですかね、という話がなされたのだが、これはよくわかるところがある。  組み木細工も子供のようにガチャガチャやってたらどこかが解けて一挙に解体できるようなことがあるが、私の人生は概ねそのようなどんぶり勘定である。当然今所有している金銭を把握していないし、支出も管理しない。かなり年齢が長じるまで靴紐が結べなかったし、未だ部屋の汚さには相当の自信があ

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          プロセスとしての生存~二本足の哲学と行為存在論~

           これまで数多の愛情飢餓が青年を美的な死に誘ってきた。重たい懊悩の文学は終わることがない。かえってこんにち筆を執りて書くべきは、聡明な美意識を保ちながらも生き抜くための産物である。かつての観念的散文の時代とは違い、新しい媒体が普及したこんにち、感覚刺激に訴える快的な美が万人に行き渡ることができるようになった。しかし私には、漫画を描く才能も音を打ち込む才能も、今のところない。ところで、いかにそうしたものが普及しようとも、伝達したい内実を伝達するものとしての文章は、その精度からい

          プロセスとしての生存~二本足の哲学と行為存在論~

          マインド・モードの活用術

           太宰治の『人間失格』に、上京した主人公(太宰の仮託)が東京の友人に「「酒」と「煙草」と「淫売婦」」を教え込まされたという記述がある。一方私は、昨年の中頃に「「老子」と「ユング」と「マインドフルネス」」を教え込まされた。恐らく自分の中では、同時期の中枢神経刺激薬コンサータの中止からマカの服用への転換とともに、一つの自分の画期となったと考えている。老子とユングとマインドフルネス、いささか怪しい組み合わせだが、同時期に他の友人から勧められたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を

          マインド・モードの活用術

          5月の末から始めたnoteですが、今年は本当に多くの方からの声なき応援によって支えられた1年でした。少しでもいいものを贈ることができていたらこの上なく幸いです。 来年も頑張って参ります。私たちにとって良しと肯定できる1年にしていきましょう。 よいお年を!

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