存在と感情の補償についての考察~癒しの知足論~

 かつてマルクスは「宗教は民衆のアヘンである」と書き付けたが、当時アヘンは「痛み止め」であった。しかるに、このような痛み止めは、内在的生においては活用すべき作用として現象する。今回はこのことについて掘り下げてみたい。


存在の補償

 ハイデガーの議論に、実存論的な死の議論があるが、ここでは「非本来性」と「本来性」が論じられる。そこでハイデガーの議論を援用しつつ、あくまでも私の見解を述べると、私の死の現象は、道具連関としての世界の連関における自己の不在である。死後に私はいない。このことは、たんに私を抜きに世界が回っていくという現象を意味しない。そうではなくて、私は不在として表象される。ハイデガーの議論によれば、本来的な在り方とは連関から切り離された、すなわち、「孤独」である。この楽園と存在の根拠を喪失した世紀末的不安、すなわち「何となく不安」「ぼんやりとした不安」は、無の不安ではなくて、「不在」の不安である。実際に、自殺未遂でもしてみるとわかるが、以前にも書いたように、自分の死には「先験的確認行為」が効かない、すなわち、「自分が死んだ」という事態を確認できないことが露呈する。
 この議論を展開させるために吉本隆明の『母型論』を援用する。この議論では、ライヒを引用して、人間の「無意識の核」は受胎8か月から出生後1年ごろに形成されるとされる。胎内において胎児は、母親と「内コミュニケーション」を交通していることになっている。これは、例えば「考想察知」や「超感覚」、「妄想」、「作為体験」に開かれているということである。というのは、母親の感情の変化により母親の代謝が変化し、それが即座に胎児に伝達するためとされる。この「退行=分裂」の核は、誰の心にも母という「一者」として存在する。恐らくこの事態は、大脳皮質的ではなく大脳辺縁系的であり、遺伝子とともにその人の「気質」を決定する要因になると思われる。実際に、周産期によってその後の人生における病歴が変わってくるものである。胎児期は、すなわち自己がまだなく、或いは自己が自己を超え出て流れているので、このことが新プラトン主義などで言うところの「充溢」の原型になると考えられる。胎児は、不満でも満足でもなく、満ち溢れている。イメージとしては、自己が環界にまで広がっているような感覚である。だから、これが先頃から論じている、「グノーシス主義」の「一者」、すなわちその筋で言うところの「存在」に比定できるところである。
 ところで、旧約聖書において神がモーセに命令をする場面で、「私は在りて在る者である」という宣言をする。すなわちパラフレーズすると、「存在としての存在」という宣言である。父なる神は共同性の「法」を基本とするものであるが、恐らく歴史的にどこかの時点で「存在」が父に繰り込まれたものとみられる。このことは、インドにおける「ダルマ」、漢訳の「法」が同時に「存在」を内包する事態と同じである。一切の存在は、宗教的要請として「法」のもとに従わされざるを得なかった。法とは秩序であるから、法のない存在とは無方向性の蠕動であり、活動態である。この事態は先程の「考想察知」以下の事例を想像してもらうとよい。
 神が存在するか、神は存在ではないか、というのは議論があるものであるが、このような議論は外在的事実を競っても意味がないというものなので、河合隼雄が「心的現実」と言うように、ユング的転回をして事を追ったほうがよいように思う。すなわち、実証的な事実認識ではなく、内面の探究、主体的真理に向けかえるのである。そして、世界がフィクショナルであるとすれば、このことは端的に現実と言いうる。そうしたところ、神の元型が「存在」であることが理解されると思う。すなわち、聖書に忠実になっても、先に述べた「存在の剥奪」は必要な出来事だったのであり、神に「存在」性は要請されるところなのである。しかし、剥き出しの存在は精神病である。男根には見た目の通り志向性がある。だから、共同性を要請した農牧民において、法は存在に先立たねばならなかったのである。しかし、「心的現実」としてはどう考えても「存在は法に先立つ」のである。だから、ここまでのことをよく了解されれば、ある重大な帰結が導出される。すなわち、神はいる。というよりも、神はある。原的なるもの、その元型として、刷り込みよりも以前に形成されてしまっているのである。このことから、一神教と対幻想が人間の経験に適合的である事態が理解される。このさい、「多神教」を対立概念として持ち出すのは、半分は粗雑な理解である。というのは、多神教の内実としては、こんにち言うところの「推しのアイドル(偶像)」がいるものであり、実際には拝一神教にやや近いようなところがみられるものである。だから我々は「神がいない」と速断する前に、また世人にみられるように「神を信じられない」というようなさいの、神をなにか遥か天上彼方に表象するそのイメージを持つべきではなかったのである。神はあったのである。感じられる世界とは立ち現れる現象である。すなわち、立ち現れる現象は外界ではないのである。情態性とは、それによって世界という現実性がそのように彩られる性質のことである。だから、「存在」の気分が世界の私への立ち現れとなって生起する。そこで、統制原理としての神に、すなわち神の構築的な側面である「法」、或いは「法人」に何を代入するかというところで侃々諤々となる。決着はつきそうにない。
 だから、不在の不安、満たされなさを穴埋めするためには、ともかく神と不死性を、意識ではなく経験の領域に形成して確保しておくのである。このさい「信じる」か「信じない」かという意識の問題ではない。意識よりも長期的な経験が、或いはより深層の現実性が、その感覚を規定する。このさい重要になるのは、やはり絵画や物語などのイメージ操作的な機能であろう。様々なものに触れることはそれ自体大切なことだが、実際には、あり合わせのものの中でもよいものに触れるということが大切なのではないだろうか。


感情の補償

 不満は、なにか形而上学的な事態ではなく、足るに足りない落差である。喫煙者におけるニコチン受容体のように、受容体はありながらもそれが渇いている状態であるから、例えば聖書であたかも比喩的に「渇き」と言われているのは、実は比喩ではなかったのである。喫煙の場合、禁煙後3日目以降に受容体の数が減り始める。これは半ば比喩表象であるが、この喫煙の事例からも、実際に様々な疾患と受容体は対応しているものと思われる。よくあることだが、たんに「心」などという正体不明の喚起力で掴んではいけない。なぜ、一度高揚状態を掴んでしまった病者は、それを二度も三度も繰り返すのか。この事態は受容体という表象で把握してもよいようである。依存症と呼ばれる事態では、特定のドーパミン受容体の数が減少しているようである。すなわち、楽しめば楽しむほど案外逆説的に楽しくないものかもしれないとさえ思う。言いたいこととしては、適度な楽しみが必要なのであり、法と存在の話のように、感情を統制的に使用することが要請されるのである。このさい、「何に対して依存症になるか」ということも鍵となる。そのためには、よく言われるような「依存先の分散」という原理だけでなく、父権的に切断する「連字符的禁欲」も要請されてくる。人間の一日や一週間というサイクルの中での行為のリソースは有限なのである。
 「中庸」の徳にはまだ方向づけという変数が足りていなかった。かえって方向づけこそが重要な感度なのである。それが自己形成でもあるのではないか。
 さて、しかしここまでの話はあくまでもことドーパミンに限定した話に近いので、通俗的に「愛情ホルモン」と呼ばれるオキシトシンに関しては、知る限りそうはいかないようだ。オキシトシン受容体は、愛着障害において「不安型」「回避型」「安定型」と言われるように、身体的な訂正不可能性が強い。往々にして境界体質の母親に育てられた人は同様の事態を招くものである。不安型のように、この受容体が余りあるのに渇きすぎると、基本的不信や不安などを招くので、むしろこちらを積極的に語るべきである。
 そこで「感情の補償」としては、よく、人に対して向けられるものを人で解消する方法が紹介されるが、それはかえって不安定性を増すことなので、かえって人間関係を良好に保つためにも他の基盤をもってして主軸の戦略としたほうがよいように思う。そこで最も有力なものと考えられるのが日常系アニメなどの作品群である。現実でそれが満たされない人が見る場合は多くみられるが、関係性を楽しむ作品に移入することで、それを満たそうというものである。アニメーショングッズの氾濫は、この事態を端的にあらわしているのではないだろうか。人と話していても、単なる高揚型の快感ではなくむしろじんわりとした共感型の「ああ、いいねえ」というような感情に満たされることがあるはずである。そのためにわたしたちは、かつて主に女性たちが楽しんでいたような「関係性」に満ちた作品を消費するのではないだろうか。「日常系」や「百合」は、不安の癒しに寄与するはずである。


おわりに

 私の議論が奴隷道徳であるということはすぐに察知されると思うが、かつて男たちのために家庭があったように、かえってそれに支援されなければ現実の現場で生存していくことは叶わない仕組みである。猫を飼うでも推しキャラを作るでもよいが、ともかく各々の生活スタイルに合った知足を工夫するべきである。

2024年4月5日

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