書評:『構造と力-記号論を超えて-』~「現代思想」の流動論~

池袋ジュンク堂 『構造と力』”ついに”文庫化

 1月31日、私は池袋のジュンク堂で、文庫化された浅田彰著の『構造と力』を購入した。私がまだ所謂「現代思想」のことを右も左もわからなかった頃に本書の読書会などを開いてくださった先輩もいたので、ずっと気になってはいたのである。そこで数日かけて読んだのであるが、非常にテンポよい文章で小気味よかったので享楽的に読めた。本書は1983年に出版され、所謂「ニューアカデミズム」=ニューアカブームを起こした本であるし、執筆センスがあったことは確かだろう。多くの若者の人生を誤らせた一冊でもあるやもしれない。

 まず、この本を開いて入ってくるのは、「本書の構成について」である。ここに既に本書の特徴が先取りされているので、紹介することにする。

 「序に代えて」では、本書の執筆にあたっての姿勢を明らかにするとともに、本書全体の論理の雛型を提示する。
 第Ⅰ部では、構造主義とポスト構造主義をひとつの一貫したパースペクティヴの中で論理的に再構成し、現在の理論的フロンティアの位置を確定する。
 第Ⅱ部では、第Ⅰ部で提示したパースペクティヴをさらに内在的に理解すべく、構造主義のリミットと目されるラカンの理論に定位して詳しい分析を行ない、その後、新しい理論家たち、とりわけドゥルーズ=ガタリが、どのようにしてそれを乗りこえていくかを検討しながら、ポスト構造主義の理路を探っていく。
 なお、ひとつひとつの章は、完結した独立の試論として読むことができる。

『構造と力 記号論を超えて』,  浅田彰, 1983年

 これを読んで何を言っているのかに引っかかったり、まずもってわからなかったりしたら、まだあなたは読む時ではないので引き返すことをおすすめする。この度の文庫化で買ったはいいものの投げ出した人も多いかと思う。わかる人が読めばかえって私が何を念入りに書いているのだろうと思うことだろう。すなわち本書の文章のようなものは共通語に見せかけて共通語ではなく、私がはっきり言えば本書を構成する文章は或る種の自覚されづらい「方言」である。或いは国民国家の成立によって「標準語/方言」の区分が生起してきたとしても、言語は多階層的であって、標準語のプラットフォームの上に搭載される特殊方言によってこそ、思想や国家が動いてきたという面は否定できないのではないか、ということで、恋愛や宗教における常套手段は、テクニカルタームやそれの機能しうるコンテクストの固有化であろう。これが「神話」や「言語」の「創造/想像」の議論の真を突いたところでもあると思う。知るかぎり高等動物は「象徴」への参-画を好む。例えるならば特定の顔や声や匂いといった記号を「見分ける/聞き分ける/嗅ぎ分ける」ような機能である。「みんな同じだよね」という同一化よりもむしろ「あなたも」或いは「あなたがた」という同一化のほうが好まれる印象がある。気取った若者がこのような文章を好むものであることは、古今そう変わりはない。

 さて、だいたい本書の流れとしては、「近代」論が語られ、ラカンが語られ、最後にそれらの乗り越えが軽く語られる、というものである。だから、本書は決して「近代超克」論ではなくあくまでも「近代論」の範疇であると思うが、それは表の顔で、実際には「トップダウン型批判」の伝統の系譜に位置づく「評論」である。トップダウン型=父権主義=神経症、という「現代思想的な」構図を想定してもらえばよい。この事の次第はだいたいトゥリーとリゾームの対立に照応させることができる。

序に代えて
 《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み
 ―――千の否のあと大学の可能性を問う

 サブタイトルを書きながら、はや投げ出したいような気分になってくるのを、どうしようもない。大学について論ずる? まだ何か論ずべきことが残っているかのようなふりをして? 大学についてあれほど多くのことが語られ、しかも、予想されていたこととは言え、それが現実に何の効果も及ぼしえなかったことが確認されて、すでに久しい。それ以来、この問題については優雅に肩をすくめてやりすごすというのが決まりだったはずだ……。

浅田彰『構造と力』

 こうしてしばらく浅田の独白のような文体が続くが、このように浅田の文はある種の名文である。少なくとも知的アジテーションではある。私がこの本を読み始めるかどうかの頃、ちょうどあの桐島聡が名乗り出してすぐに死んだり、本を読み始めてからの私自身はジャズ喫茶に通いだしたり、「だめライフ」の連中と絡んだりしていたので、どうもその経験が連合しており、妙にハイテンションで読めたのである。これより前から私が読んでいた『共同幻想論』が出たのが1968年、印象深いことだが、森田童子が「ぼくたちの失敗」を出したのが1976年、本書『構造と力』が1983年なので、既に総括されているようなものであったがまだ10年ばかり前まで「大学」という空間で諸々のことが起きていた時代を背景として書かれている。

 その上であえて言うのだが、ここで「評論家」になってしまうというのはいただけない。<道>を歩むのをやめたからといって<通>にならねばならぬという法はあるまい。自らは安全な「大所高所」に身を置いて、酒の肴に下界の事どもをあげつらうという態度には、知のダイナミズムなど求むべくもない。要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位(エレメント)であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。

 ここの「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」は非常にこの現代思想界隈では有名な言葉となったものだが、すなわちこれは、メタな反省をしつつフロー的に無反省な没頭をもして、しかし結局はメタに反省して粋に次の場所を探しに出向くというような意味合いで捉えてもらえばよいと思う。

速く、そしてあくまでも、スマートであること!」と煽動して、本書は本論に入っていく。


 本論において最も重要なテーマは、人間というものの自然界からの「ズレ」、あるいは「過剰」である。この過剰さの行方ということが色々と語られる。文明以前においてはそれは「祝祭」「ポトラッチ」といった蕩尽(バタイユ)であったろうし、近代産業社会においてはそれは無限の前進運動としてつねに再生産的に未来へ「繰り延べ」られる。個体において「過剰」は「欲動」と呼ばれる。欲動は「欲望」とも「欲求」とも異なり、常に自然界からズレた過剰さを孕んでいる。
 こうした議論から、一貫して「excès(:ズレ)の行方」が問題となる。基本的に本書はこの議論に終始するものとして抑えてもらえばよい。

 私が思うに、こうした議論が成立するのは、衣食住に事欠かないほど生産力と技術力が増大したからであるが、そうであれば確かに一度味を覚えてしまった者が不可逆的であるように、欲動を、ひいては過剰さをどう処すかということが問題として焦点化もされようと思う。私は「『老子』と『エピクロス』」の提示するような人生にも合点がいくほうであるが、同時にこうした過剰さの全面解放としてのスキゾ的生き方にも魅力を覚えてやまないほうである。こうした相矛盾する思想が自己の選択において対立した場合、とりあえず現段階で見越せる範囲までの功利性で判断しておけばよい。しかし、問題は、功利性の帰結が明らかになるのはつねに事後的であるしだいである。そうすると、自分の中で一方が功利的であろうことで判断しておけばよいとは思うが、どうか。というのも、本書の続編的な位置づけに『逃走論』というものがあるが、こちらはもっと自由に書かれ作られた本であり、人生論として読まれたい方はこちらも出回っているのでおすすめする。

 少なくとも、この本は、少なくとも1回目はマジになって読む本ではない。そこが魅力の一つで、ある程度現代思想の手触りや言葉遣いに慣れた人であれば非常に心地よく読める。次々と詩を読むような快感が得られる。だから、そうしたものとして受け取ってみて、もし使えそうな議論があればそこを「ツマミ食い」するのがよいと考えている。実際に「スキゾ」という看板に偽りはなく、比喩的に言えばそうした「ドーパミン分泌感」は得られる作品になっていたことは保証する。定価1000円の値打ちはあろう。

2024年2月25日


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