至上福祉と変態

 私はいつも何かに依存している。依存していないと途端に不安に圧倒され、ときに神経症の症状を誘発する。そういえば去年の夏、親しくしている友達に、「友情と恋愛を区別しろ」とはっきりした口調で言われた。そういえば私は、高校の頃は今よりもっと依存的感情が強かった。大学に入り、コロナ禍のオンライン期間、今の友達に出会う前は、明らかにメンタルが不安定な友達と、毎日のように徹夜で通話していた。彼はリセット癖を発動した挙句ひとりでに去っていった。
 そういえば私は、小学4年生の頃父親に「依存症」だと宣告されたことがある。というのも、父が私の「おかしさ」を知り合いのお医者さんに相談したところそうらしいと言われたとのことだった。そうだ、私は物心ついた頃から周囲に対する自分のその点でのおかしさを自覚していて恥に思い続けてきた。幼い頃は母親から離れるのが異常に怖かったし、母が免許関係のことで私を、私と同年代や年下の、幼児たちの中に預けた時も、私は弟や他の子供たちと違って、徹底的に分離不安をきたし泣き喚いていた。どうにもそうした根本的なる神経症気質があるようである。これはなにか育ちではなく神経伝達物質関係の問題が関わっていそうな気配がするが、恐らく先天的疾患により愛着が形成されなかったことに起因するようにも思われてならない。その後の人生においても、ある程度一人で行動ができるようになって以後も、一人部屋を与えられてもそこに居られず、家に一人でいることが怖くて誰もいないときにはわざわざ外で誰か家族の帰りを待っていた。肝心なことには、弟にはそのような傾向は全く見られなかったということである。そういえば中学1年生の時には、相手が嫌がっているにも関わらず同性の同級生に対して、「俺はあなたのことが性的に好きだ」などと言った記憶が割と明確にある。その時は、相手は器用にも聞こえていないフリをしていたはずである。
 ところで、そうした分離不安がなかった時期を参照すると、すべてその時期は親などに邪魔されずにゲームやテレビやインターネットに興じているのである。特に、私が人間関係を形成することさえしていなかった最初の高校の頃から、ひたすら楽しかったニート時代中盤までにかけては、ネット上のコミュニティが私の唯一の居場所だったのである。思えばその頃が一番といってよいほど安定していたし、また楽しくもあった。当然私のことだから、出しゃばりすぎて叩かれたり煽られたり、空気が読めずに幼稚さや異常さを指摘されたりもしたし、それはそれでかなりの苦痛を要したが、しかし少なくとも居場所だったのである。
 ところが今はどうか。と、言いたいがしかし、今もって私の宙に浮かされたようなまなざしのない不安感は何も変わらない。ひとを求めはじめた中学の頃から今に至るまで一貫して変わらないのは、私が選び取る相手が悉く私とは違って、或いは家庭という安定系から分離していなかったり、或いは「他者性」をそれとして受け容れた上でどこか世界に対して割り切っていたりする者たちばかりなのである。私はやはり人生観及び歴史観として、現在だけが不自然に脱中心化しており、過去と未来だけに本来性の中心があるかのように感じている。しかしよく思いめぐらしてみてほしいが、その「現在」とやらでも度々捨てたものではない本来性が顔を覗かせることがあるではないか。そうすると私と親しくしてきた者たちは皆どこか器用である。というのは、適当なところまでは打ち明けても適当なところで拒絶することを誰もが為してきた。私秘的なものの告白というのはいかにも前期近代的しぐさである。しかし畢竟、こんにちの家庭は普通それぞれの「個室」があるものである。ここまで何もかも曝け出しているかのようなこの私にさえまだまだ弱みはあるのだ。肝心なのは弱みがないかのように見せかける技術である。
 やはりこのように考えていくと、ルソーと宮沢賢治は共通しているという思いを強める。

この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたろうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもうひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ

宮沢賢治『春と修羅』より

 そういえば「隠し事」と「書く仕事」という洒落が存在するが、物が書けない人というのは隠し事の意識が強すぎるのかもしれない。自らのことではないように思えて、全て書くことというのは「告白」を含むのだと思う。最大の哲学者とされるイマヌエル・カントは何を間違ったかルソーに感激した挙句かの道徳論を築き上げたが、基本的に殺害者に対しても嘘はついてはいけないらしい。私のような者はカントのある面は好きでも、そのような道徳法則や時空論は蛇蝎の如く嫌っている方であるが、酒の席で友達と「哲学は、今も、カントー!!」などと一緒になって叫んでいる時点で、その限りにおいて私たちはおめでたくも分かり合えていて孤独ではないのである。ちなみに私の師である教授は授業において、「勉強は、やっぱり、ゲルマーン!!」などと絶叫していた。個室のプライベートというのも半分は大事だが、もう半分で酒と音楽のロマン主義を大切にしたいものである。恐らくどちらを欠いても人間は健全に生きてはいけない。そもそも考えてみるといいが、「他者論」を語る前に、自己も定まっていないうえ自分は自己のことをほとんど何も知らないではないか。内面のリビドーとしての攻撃性は、孤独において自傷的に作用するが、そうすると恋愛も友情も「愛」は総じてアヘンであるとも言える。そうであるならば、その「至高性」は、先に宮沢賢治が述べたように、個別の関係ではなく、私の言葉で言えば「空海的パッション」として、軽薄な性欲や七生報国のナショナリズムに回収されることなく、至上福祉にこそ見出したいものである。但し個々別々の具体的な人間存在はそんなに強くはできていないので、弥陀の本願で万人救済を誓うのもいいが、常に同時にローカルな関係を大切にして、そのような足元において優しさを忘れてはならないのである。ブッダが入滅した際、弟子のアーナンダは縋りついて涙した。それを想えば、肉食妻帯というのはきわめて誠実な展開のしかただったのかもしれない。ある局面に到達するまでは捨ててはいけないローカリズムである。

2023年7月23日


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