精神の病理と世紀末哲学の学習の結果としての概ねの報告
昨年の夏からこの頃にかけて、わたしは精神病理に深い関心を寄せてきた。そこで色々なことが経験の只中で証されてきたと思う。そのことについて、とりあえず一区切りをつけた今、報告というかたちで筆を執ることにした。
世界という物語による精神の安定作用について
人は自明には、現実=事実の世界に実体的に生きていると思い込んでいる。これは、例えばわたしたちからみて明らかに物語世界やフィクショナルな精神世界に生きていた過去の民衆においてもそうであったように考えられる。しかし、そのことに気づいてか気づかずにか、人は別様の物語を生きるようになることがある。例えばこんにち、公教育過程において宗教教育は徹底して排除されている。教えられる世界観は、往々にしてニュートン的時空間に加速膨張を付け足したような世界の辺境で展開する人類の因果と年代の連鎖する歴史世界である。すなわち、実証されたと考えられる事実そのものを教えることが教育だとされており、その科学精神も子供たちに植え付けられる。しかるにわたしはこれがこんにちの精神的苦悶の病巣だと考えるのである。実証されたものを構成素とする世界は物語を欠いた空間であり、幻想なき粒子の寄せ集めである。言語を使用し始めた人類はやがて宗教的行為を開始したが、それは無くても済んだものだったと考えられるものだろうか。そう考えることが困難なことであれば、わたしたちは想像と象徴の有機的体系を摂取したり構築したりすることで、すなわち物語を仮構することで、現実的なもの、混沌の狂気から身を守る衣服とするべきではないか。こんにち流通している営みは、問題への対症療法としてその場しのぎの頓服を服用することである。この場合、近代家族の論理に回収される圧力に則れば、家族とは端的に家族物語と表現される事態となる。そこで、家族物語に重荷を背負わされた人々はどうなると思われるだろうか。わたしたちは、物語について考察しなければならないだろう。
共同物語、自己物語-或いは自伝、私小説-と、箱庭療法
自己物語は通常自伝や私小説というかたちで最もわかりやすく展開される。それに先立って神話や儀礼以来の共同物語の空間が考察されなければならない。
これは内山節の新書『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』からの引用であるが、概要としては、支配者の世界の論理では「天-王-臣-民」の秩序が合理化されていたが、その世界観は民衆たちにとっては自分たちの世界の物語ではありえなかったので、物語がすり替わったというものである。このような「支配者の世界」が実際に成立していたことと措定されていただけであることは区別して論じなければならないが、ところで、女性観の中性化は歴史的にも共時的にも「まれ」な事態であることを指摘しておかなければならない。近代哲学最大の人物であるイマヌエル・カントであれ、ジェンダーの観点からその男性中心主義が批判されており、例えば、理性は男性原理、感情は女性原理、というような二分法がみられるのである。
例えばそもそもが「女はみんなヒステリー」などという俗説の語源的由来である「ヒステリー」が、ギリシア語で「子宮」を意味しているように、「男は理性、女は感情」などというのはこんにちの大衆に始まった言説ではない。
すなわち、これらの引用された言説に典型的にあらわれているのは、女性の自然性というジェンダーである。「崇高」という感情は、一般にカントは1755年に発生したリスボン地震の津波の伝聞から大いに啓発されて考えたと言われるように、例えば東日本大震災のあの津波の圧倒性や、もっと身近にわかりやすく言えば風の強い日に一人浜辺に立って波の脅威に圧倒されるような、支配できなさ、圧倒される感覚、を基本としている。対して「美」は、哲学的議論の系譜によれば、女性=自然に比定されるもので、あくまでも理念的に人間(男性)の支配下に置かれるべきものとされる。カントの有名な天才論が、あくまでも美の至高なものを自然美としながらも、天才の技巧だけは自然美を創造しうる、と言っていることを想起される。この議論もまたカント特有の「要請哲学」だった可能性が高いように思えてくる。あくまでもニュートン以後の自然科学者でもあったカントにとって、自然は征服しうるべき対象ではなかったか。
このところについて私見を述べておくと、私の勉強した結果としては、仕方がないものは仕方がなく、いかに教理的な想像と象徴の観念体系といえども、「現実的」にどうしようもない事態はあるので、男性性ごときがカオスや狂気を制御できるなどと考えるほうがよほど狂った考え方であろうと思う。
世紀末ウィーンで流行した哲学者にショーペンハウアーがいるが、彼は『女について』という著書を世に残している。曰く、「女性が子供を相手にするのに適しているのは、女性自身が子供っぽくて愚かだからである。」ということである。かのアドルフ・ヒトラーもショーペンハウアーを読んでいた形跡があるが、彼もまた『我が闘争』の中で、「大衆は女である」と言い切っている。そのような一般的にみられる事態ついて、ショーペンハウアーと同様に世紀末に流行した哲学者であるニーチェは、『人間的、あまりに人間的』の中のアフォリズムで、「だれでも母親から一つの女性像を心に抱いている。彼が女性一般を尊敬するか、軽蔑するか、一般に無関心でいるかは、それによってきめられている。」と述べている。ニーチェに対しては、芥川龍之介が、イエスについて記した『西方の人』の中で、「ニイチェの叛逆はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆であった。」と語っている。
『共同幻想論』の中で、吉本隆明は、「巫覡論」というものを論じており、そこではまず芥川龍之介の『歯車』が取り上げられるが、その箇所で『遠野物語拾遺』から、
というエピソードを引用している。
このことを引用したのは、吉本が「巫覡論」で<いづな使い>の話を始め、「狐が化ける」話をするからである。ユング心理学的な「元型」があるとすれば、「狐」というのは明らかに何らかの喚起力のある元型的作用をもっているように感じるが、どうだろうか。また、人は誰しも元型、ないしは十把一絡げの経験を反復して生きているので、その元型が露呈したような人に惹かれるという事象もあるのではないかと思う。
臨床心理士の河合隼雄は、日本人に夢分析は向かないと判断して「箱庭療法」を導入したそうであるが、このことは、私小説作家が往々にしてうまくいかず、箱庭的に物語を仮構した人たちがうまくいったような事態に端的に指示できると思う。柳廣孝の『無意識という物語』によれば、芥川がフロイトを読み自己流で夢分析をし、それを創作に活用していたことが書かれている。そういえばヒトラーも晩年の敗色濃厚になっていた時期は、自分の世界に引きこもってひたすら「世界主都ゲルマニア」の箱庭にかかりっきりになっていたようであるが、そうでもしないと精神が保てなかったのではないか。
歴史上最も多く取られてきた戦略は、私のいうところの「世界の物語化」であると思う。宗教や神話の基本形がこれである。これは浅田彰が宗教について「壮大なパラノ体系」というように指摘するものであるが、『聖書』の世界観が圧倒的に狭く箱庭的である事態を想起してもらうとよい。『聖書』はひたすら神関係と社会のことについて語り、知る限り深層心理や宇宙については語りを規制している。深層心理や宇宙を語り出す女性などを想像してもらうとこのことがわかりやすい。
精神分析家のカール・グスタフ・ユングは、母方の家系が霊能者に溢れていたということで、母親もまた霊媒体質だったようであるが、物の本を読むかぎりそうした複雑な母子関係がユングを精神分析やオカルト、神話の探究に向かわせたようである。ユングの両親には喧嘩もよくあったらしく、ユングが3歳か4歳の頃に母親が入院するという事態が発生しており、ユングの生涯の人間不信を形成したといわれている。
芥川をはじめとする文豪たちにしても、ユングにしても、誰にでも多かれ少なかれある「原不安/原トラウマ」や「分離不安」が強く出てしまうタイプに生まれ育ったようであるが、そのアプローチが大きく異なっていたように伺える。一応述べておくと、これで育ちに全てを還元してしまうのはいただけない。それ以前に、恐らく遺伝か何かだとは思うが、その「育ち」の影響を強固に受けてしまうような「感覚過敏」、或いは朗らかに言い換えれば「感受性の強さ」があるように思う。
その後、ユングは少年時代にその母親からゲーテの『ファウスト』を読むように言われ、それが一生の愛読書になったようである。そして、ユングは「東洋」に着目して、とりわけ道教や、仏教でも「マンダラ」を重視した。マンダラの有名なものには、女性原理の象徴である「胎蔵界曼荼羅」と男性原理ともいわれる「金剛界曼荼羅」があるが、こうした、心的世界の宇宙的プロジェクションが重要だったようにみえる。
文章的箱庭の限界は、例えばアニメ映画による箱庭のような視覚的共時性がないことにも根差しているように思う。結局のところ文章は聴覚的であるため、一方向に流れるしかない。それぞれの箱庭を持ったほうがよい。
「新しい神話」について
わたしたちが「物語」によって生かされていることが確認された今、明らかなのは、人類が到達できうるのは、物語、或いは神話の可能な地点までだということである。アインシュタインはスピノザと大乗仏教を必要としたのではなかったか。「ドイツ観念論最古の体系プロラム」の書き手はシェリングだとされるが、そこでは「新しい神話」の要請が主張されている。シェリングは「美=感性(aestheticなもの)」と「理性」の止揚を主張する。ここにおいて女性原理と男性原理は綜合されるべきとされるのである。この感度がまさにロマン主義の思い描く「アンドロギュノス」であることは言うまでもない。
シェリングは『人間的自由の本質』において、光と重力のアナロジーで愛を描いており、「シェリングによれば,この「神の内なる自然」と神自身の関係は,「自然における重力と光の関係によりアナロジカルに解明されうる。」」というしだいである。
自己物語はほうっておいても勝手に構成されてしまう。そのいっぽう、『聖書』は
というように、完成品として提供されている。完成されたものに依り縋る態度が、精神の安定作用に寄与するとは思われる。
感覚過敏と境界体質~言語性不安型について~
何らかの理由で生来「視床ゲート機構」などの関係により感覚過敏な人は、基本的に「安心」感よりも「不安」を増幅させやすいと考えらえる。これについては扁桃体の「快/不快」の選択プロセスが関係しているのだが、通常の人間は情報があれば自ずから不安を選択してしまうようである。そのことで、さらに生育歴に不幸が重なると、クレッチマーが『天才の心理学』でいうところの「精神病質」や、或いは言い換えるならば「境界体質」が発現しやすいはずである。そもそも、見渡す限り「神経症」と「分裂病」という区別はさほどうまいものではなく、不安やヒステリーの出やすい人は同時に統合にも問題を抱えているように観測される。だからここでは、「神経症/分裂病」を脱構築したものとしての「境界例」が、むしろ病態の基本形となる。感覚過敏ということで言えば、だから、「自閉性精神病質」というハンス・アスペルガーの当初の概念は、恐らく的を射ている。
ウェクスラー式知能検査にはかつて「言語性知能」と「動作性知能」という区分が存在したが、自閉性精神病質の傾向が高いと言語性が高く出やすい様子である。そこで、「言語性/動作性」「不安型/回避型」という類型を活用して人間をあらましとして分類することの実践的意義もあるように思う。わたしのような者は、ここまで書いてきたことからおわかりの通り「言語性不安型」である。
「分離不安/融合不安」という二項対立は、明らかにユングの「グレートマザー」元型に引き継がれているが、わたしは親しい人が離れていく夢はよく見ても、また、夢に実際の父親が登場して叫びながら起きることはあっても、呑み込まれるような夢は見たことがない。分離不安は不安型に、融合不安は回避型に対応するだろう。こんにち、回避型に非常に適合的な社会になっていることに異論はないだろう。近代的自由は付帯的に孤独を伴う。
推察するに、このようなことは通常の言葉遣いでも語ることができるのだが、こうして知性化した語り口を用意することで、知的に、或いは言語的にプライドが高い人たちにも語りやすくしている面が、文化的営為としての精神分析や哲学にはあるように思う。
おわりに
我々は世界=物語の鎧を身に纏って生まれてくるわけではない。だから、文化的営為はいつもつねに青年によって暗号解読されなければならない。文化資本の格差性というのは、このような物語論の範疇が非常に大きいのではないかと感じている。わたしたちが文化を手中に収めにいくとすれば、真に知性に満ちた子供たちに開かれた語りを実践していく必要もあるように思われ、それこそが、見せかけの、空虚な科学的啓蒙に留まらない充実した啓蒙に値するのではないかと思う。
2024年5月9日
おすすめ文献リスト
『聖書』
『オイディプス王』,ソフォクレス
『老子』
『共同幻想論』,吉本隆明
『カラマーゾフの兄弟』,ドストエフスキー
『河童』『歯車』,芥川龍之介
『昔話の本質』『ユング心理学入門』,河合隼雄
『疾風怒濤精神分析入門』(文庫版『ゼロから始めるジャック・ラカン』),片岡一竹
『天才の心理学』,クレッチマー
『構造と力』,浅田彰
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