見出し画像

自分を活かすもころすも自分次第

 というのは、どのような能力を自覚的に身につけ何をするのかという規範論でもなく、相対的に秀でている才能をいかに認識し活用するかという方法論でもなく、注目と関心を注ぎたいのはそれらから一歩(または何歩か)下がった前段階の部分。
 それはどこの部分なのか、どこの話なのか。規範論や方法論をまったく意に介さないというわけではないが、したいのはそれらに進む以前の話。
 ある能力をどのように発揮しようとしていたとしても、どのような分野においていかに才能があると気が付いたとしても、それらに取り組む以前の段階に遡ることから始めたいと思っている。
 端的に言えばそれとはつまり「自分」と何気なく呼んでいる「その自分」とは何かということであり、またそう呼んでいる「この自分」とはどこまで確かな存在なのか、ということが先んじなければ、考えるためには「自分」を出発点にしなければ何も始まらない「自分」以外のことを考えることは本来できないではないか、ということ。その順序があべこべになってしまうような部分が話の核であり、またこの話を通してときほぐしたい部分である。

 敢えて説明っぽいことをすれば、私達が「自分」や「私」と呼んでいるその「存在」についての話であり、またこの「存在」である私達が生や死といったことの意味と無意味について、その濃淡をいかに恣意的に、そして企図的に、都合よく解釈し設定することができるか(もしくは何気なくそのようにしているのか)という話になる。
 よって、これは「存在」するということがいかに確かでありまた不確かであるかということに直面するという意味で存在論であり、そして「存在」するということについて見直すという意味で認識論であって、既にそして常に起こっていることをまじまじと見返してみるという意味で現象論であったり、古代ギリシャ時代のプラトンのイデア論にまで遡るとも言えるが、そのような〇〇論であろうがなかろうが、どのような枠組みに嵌めようとも、それが話の内容ではない。しかしその内容とは誰にとっても共通するものになる。またしかしそれに向き合うか否かは各々にとって「自分」次第ではある、という意味でも誰もが応用できる話である。
 
 どちらにせよ話の中心として考えたいこととは、それについてよくわかっていないにもかかわらず既に出来事として起こっているもの(=「それ」)であり、またその考えたいこととはよくわからないにもかかわらず常にそうであるしかないものである(=「これ」)という、摩訶不思議な構造をもつもの(=「自分」イコール「存在者」&「存在」)について、となる。

 ちなみに「それ」と「これ」というのは話を進める都合上そうとりあえず呼んでいるだけなので、それらが逆転しようとも、また当の本人がわかるのであれば呼び名は何でも良い。それは日常で自分自身のことを「私」と何の根拠もなくひとまず呼んでいることと変わりません。


わかるわからないを問題にするのは自分

 わかるわからないとは一体何か、どういった事態を言い表しているのか、と考え始める場合といのがある。しかしわかるわからないを考えることに必要なのは、誰がわかるわからないについて考えようとしているのか、あるいは誰にとって何がわかるであり何がわからないであるかを知るにはそれを判定する誰かについて知っていることが順序としては前提になるのではないか。
 このことを異なった角度から眺めるため、仮にある何かをわかろうとする対象と設定してみる(いまはわかっていないとしているものをわかろうとしてみる)。そうしてその対象をわかろうとするため、その対象に関わるであろうことを知るための学びを重ねる。しかしそうしている間にも設定した対象だけではなく(もしその対象が不変であったとしても)、新たに何かを知り得た「自分」とは、何かを対象として設定をした時の「自分」とは同一ではなくなってしまう。
 よって、ある対象をわかろうとその対象に近づこうと努めていることで、過程を経れば経るほど、そうしようと思い立った「自分」から遠ざかっていくという、ねじれの構造がどうしても現れる。
 ということはすなわち、何かを対象と設定し、それについてわかるわからないとする過程を経ることを通じて、そうしてある対象について何かがわかるわからないとしている「自分」のことを追うことに、その営みの実の本質がすり替わっていくことになる。
 その状況とは、ある対象がわかるわからないの話の中心であったところから始めたとしても、そのわかるわからないの営みを通じて行き着く先(気付くところ)とは実は、ある対象についてわかるわからないとしていた「自分」について、わかっているのかわかっていないのかということが営みとしてまず先行していなければ、その他のことを対象とした場合のわかるわからないについて、何がどうなればわかるであり、またはわからないになるのか、わからないということがわかる、というところ。

 つまり、何かについて(例えば、「世界」について)わからないため、何かを学び知りそれについてわかりたいと希む「自分それ&これ」についてわかるわからないが整理されていないのにもかかわらず、なぜそのわかっていない「自分」がわかりたい(わからない)と言っている対象(「世界」)について、何をどうすれば、何がどうなればわかると言えると、一体わかるのだろうか、というのが注目したいところ。
 たとえ「世界」のことを知りたいと言っている「自分」と呼んでいるこの存在のことがわかったとしても、それがすなわち「世界」のことがわかることではなければ、またもし「世界」のことについて何かがわかったとしても、そのわかったことがあることによって変移する「自分」のことまでもがわかるというわけでもない。

 ということは次のように言い表すこともできる。たとえば「他人ひとのことがわかりたい」と思うなり言うなりするとしたとして、「他人ひとのことはわかり得ない」ということに直行することも一つだが、その思いを持つなり発言をする前に、そのようにしている「自分それ&これ」について何がわかっているのかに注目したい。
 わかろうとしている対象があったとして、しかしそうして対象についてわかるわからないとしているのは「自分」であり、「自分」においてわかるとは何か、またそのわかるわからないを判定している「自分」とは何かわかっていなければ、対象としている何かについて何をしたとしても一体何をしていることにもならないでしょう。
 そしてそうしている間にその対象としている何かも、その対象についてわかりたいとしていた「自分」も、その「自分」について理解しようとしていた「自分」も、変わっていくのだから、そのような中で一体何がわかりわからないのか、そうした中で何がわかるわからないかとしているのは、そのわかっているのかわかっていないのかさえもわかっていないということがわかる「自分」である以外に誰なのでしょうか。
 よって、対象を何に定めようとも、わかるわからないを問題にするのであれば順序として「自分それ」が「自分これ」にとって先に来るのではないかというのがまず注目したい点です。

 したがって、わかるわからないを問題にしているのは自分であり、またそうしている自分についてどれほどの理解が及んでいるのか、その自分にどれぐらいの確信を持っているのかと同じように、取り組む物事や活動、人生そのものに「意味」もしくは「理由」あるいは「目的」なるものがあるのだとしているのは、そのわかっているのかわかっていないのかさえもわかっていないということがわかることに気づく「自分」の勝手だということになる。


責任があるとするのかないとするのかは自分

 しかし先のように整理をするとどうしても形而上学的な側面が際立つ。というのも自分という存在者を“ただの”形而上学的思索の媒体とすると、何もかもがどうでもよくなり、どれもこれもがそのどれもこれもで在る他ないということに、納得するかしないかはともかく、自ずと常に還って来ざるを得ない。なので、人生において「考える」ことしかすることがなくなる、人生とは「考えること」、というか、人生そのものが「考え」であるという不動の地点で過ごす以外に何もかもが、空くなっても何もおかしくはない。
 なので、自分を介して行う思索のレベルを極端な形而上学さから解放して、人間として生存し、生活を送る「自分」であるという側面にも目を向けてみたい。つまり存在者としても生きているということを(一応)現実なり事実と呼び、どのように生きる、生存する・生活する、かということを考える視座を持つために、肉々しい「存在者」としての「自分」が行動をする度に伴ってくる「責任」というものについて考えることをその一つの契機としたい。

 「責任」の話を始めると通過する地点として必ず導かれることに、「責任」とは人間が生きる社会(という虚像)にある程度の秩序を与えるために便宜的に成立させている虚構であるというのが哲学的洞察での常套であるということ、また科学的な実験においても人間が人間である限り「自由意志」というものはないということが証明されている(*後掲した実験)ということを知る。

例えば、コップに水を入れて飲みたいと思う時、誰もが意識的にそうしようと、つまり意志を持ってそうすると行動に出る、と思っている。しかし脳を測ってみるとその状況・状態の実とは、まず水を飲もうと動き出していてそのコンマ何秒後かに「水を飲みたい」という意識が起きている。
「自由意志」と呼んだりもするその意識とは、先に脳つまり身体が動いたその後に発生しているのであって、その逆を信じている場合とは、その実験結果とは齟齬がある実際の感覚を主観的に優先してそれに沿うような解釈をただこちらが後付けしているだけにすぎない。

 それでは哲学的な洞察によって他者をあやめることが悪であるということに根拠がないという帰結にたどり着き、また科学的な実証によって意志というのが後解釈であるということが明らかになったとして、「責任」があるとするのかないとするのかとしているのは、一体何をしていることになるのだろう。

 「自分」であろうが「自分」でなかろうが、理性的・合理的な道筋で「責任」のような概念を整理した場合、その他諸々の概念も同様、各々が存在者としてこの社会で生きているがために、便宜的に整理させているような決まり事ばかりである。しかしそれらが企図的で恣意的であろうとも、虚構をそう成立させている(させられている)事情や理由に思いを馳せることとはすなわちどのような事象や出来事にもある背景があるということを想起させること、また「存在者」としての「自分」がその中でどのように生きるのか、その方法を模索することに繋がる。

 なので、「自由意志」による選択は消え(「自由意志」によって選択しているという認識は消え)たことで本来はない「責任」という概念をあるものとしている思い込みを自覚するということは、同じようにそれでもなお何かにおいて「意義」や「使命」等の類のものがあるとかないとかしていることにも、同じように幻想を企図的にそして恣意的に成立させている構造と都合がそこにはあることを想起できるようになる。
 そのからくりをわかった上でそれでも生きるということを希むということは、元来は虚構でしかないものに「価値」を与える「自分それ」であり、ということはある言動について「責任」が伴うかどうかを決めるのは最終的に「自分これ」でしかないということになる。


生き死にを考えることと、生き方を考えることは異なる。

 つまりは、生き死にとは私達にとって便宜上の区切りでしかないという洞察をもとに思索を続ける「自分これ(それ)」と、肉々しい存在である限りどこまでも付き纏う生と死という区切りがあることを自明の前提だと便宜的に受け入れ、どのように生活を送るのか生存するのかについて考える「自分これ(それ)」は異なる、ということ。
 そのように「自分(それ)」で在りながらも「これ」について考え、同時に「自分これ」で在りながらも「それ」についても考える「自分」とは分裂しているのでなく、「人間」である限り、二者択一ではない。というより、二者択一にはできない。
 「自分」と呼んでいる存在これ(それ)または存在者これ(それ)とは分裂しどちらか一方を斥け他方に偏ることができるようなものではありません。一度でも深い思索の境域に立ち昇り、その後その経験を自身に持ち還ったのだとしたら、この話とは唐突なものにはなりません。
 その点、デカルトの二元論の解釈でよくありがちなものは間違っているというより、思索の量が十分ではない。彼ののこしたものとは、それに符号する思索の成果を携えている人物に出会い、そこで両者の洞察の整合性を確かめて納得するためではなく、彼のやり方が企図的なものなのかそれとも単純に時間が尽きたからなのかについては知る由はありませんが、とにかく、両者が出会ったその地点より先、すなわち彼一人では足を踏み入れなかった思索の領域に進むための言説だったと言える。

 その意味で、自分を活かしているのもころしているのも自分次第。それがない交ぜに調和をなしていようとも、場面ごとで切り替わるような感覚を覚えようとも、「自分」と呼んでいる「それ」&「これ」からしてみれば、それはどちらでもいい。そこで問題になるもは「自分」だけになる。


***

 先述の話には貫くテーゼ(「自分」に対して「自分」が行った整理)があり、それには『形而上だけでもない、形而下だけでもない、形而中を生きるとは』ということがあります。
 このテーゼについて考えることで、「存在」側も「存在者」側も見捨てるということをしなくて済む。まさにこれが形而中の自分を生きるということ。形而上の存在&形而下の存在者そのどちらにも該当する「  」が居る、という常にあったこの感覚の証明である。そしてそれこそが形而中という言葉で言い表そうとしている状態であり状況である。

 「考えること」つまり「哲学」にも、その営為の形而上性、形而下性によって、様々なタイプと種類、そしてアプローチがあることを念頭に置く。その中で、極端なかたちで垂直に立ち昇ることも可能であれば、思索と呼べる代物ではないが日常語で「考える」と言える程度のものである考えのもとに生きて死ぬこともまたできるが、そのどちらか一方ではないその間を地に足つけながらも漂う矛盾性を包含した段階(段階制)を、自覚的にそして能動的に設ける。
 そこでの自分にとっての課題とは、形而上的な存在としての「考え」と、形而下における存在者としての「考え」の両立、いかにバランスを取れるか、どのような意識配分が「自分」にとって可能なのか、その考察と実践である(になる)。