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今の自分も後の自分も後悔しないためには

 「今この瞬間」と「後ある瞬間」を天秤にかけて、何かを選択しようとする(選択しない)、決定しようとする(決定しない)というのはそれすなわちどちらにせよ「この先どれだけ生きているかどうかわからないとする視点」と「この先もある程度は生きているであろうとする視点」のいずれかを確実なもの、あるいは少なくとも他方よりは蓋然性の高いものであると断定しているからこそ可能な選択・決定ということにはならないか、ということに気づく。  「今のこのタイミング」しかないとしてある人と会おうとする、

    • 言葉を紡ぎ、なぜわざわざ表現をする

       2023年という、1年という、私達が、というより私達の社会が便宜的に定めた暫定的な区切りの最後のほう、この12月というこれも変わらず同様に絶対的な分け方というわけでもないのだけれど、しかしこの期間で自分はどのような断片群を走り書いていたのか(文字通りメモは大体走っている最中に記録することが多い)を省みる。そうすると、 と、ある。幾度と同じ理屈に帰着していたとしても、その表し方、その現れ方、言葉使いは異なる場合があることから、そうして何度も認めた形跡のうちの一つであるという

      • 『熟達論』批評

        為末大さん著『熟達論』批評 本書において整理される人間の学習のシステム以前に前提となる「自覚」あるいは「認識」について話したい。  人間(人類)という生き物・種において基本的に万人に共通する暫定的に現状整理されている事を「普遍」と言う(ことはできる)。  しかしある個人による経験談である「論」や、特定の人物達の、それも特定の分野や領域においての経験則をまとめた「説」とは、万人に適応することができるものではないという点で「普遍」なものだと言うことはできない。という本書(以下『

        • 自分を活かすもころすも自分次第

           というのは、どのような能力を自覚的に身につけ何をするのかという規範論でもなく、相対的に秀でている才能をいかに認識し活用するかという方法論でもなく、注目と関心を注ぎたいのはそれらから一歩(または何歩か)下がった前段階の部分。  それはどこの部分なのか、どこの話なのか。規範論や方法論をまったく意に介さないというわけではないが、したいのはそれらに進む以前の話。  ある能力をどのように発揮しようとしていたとしても、どのような分野においていかに才能があると気が付いたとしても、それらに

        今の自分も後の自分も後悔しないためには

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          「人生」を考える

           と言っても、「人生」とは何かがわかっていなければ「人生」を考えることはできない。考えたい事がわかっていなければ考えることができません。  考えたい対象、この場合「人生」と聞いて何をイメージするか、「人生」から何を連想するかによって、「人生」をどう捉えるかが変わります。  つまり、「人生」が変わります。  私達は「人生」と、この「人生」のなかで度々口にしますが、その口にしている「人生」とは何だと、その「人生」の何をわかって、「人生」を過ごしているのでしょうか。  それがわか

          「人生」を考える

          可もなく不可もなく「普通」でいいんじゃないか

           まだ何が起こっているのかも解っていない段階にいるお子さん(もしくはお孫さん)をブランコに乗せ、ほんとうは、本当にその人が何も解っていないのかどうかさえもわからないのだけれど、誠心誠意その存在に意識を配る(おそらく)お婆さんをこの眼でとらえたその次には、ひとり男性が子犬と階段を上がってくる姿があった。そしてその真っ白な存在は男性よりも数段多く一気に駆け上がるのだが彼が追いつくまでの様子をじっと凝視しながらその場で待っていた。そのどちらの関係性においても、一方が他方へ抱く想いが

          可もなく不可もなく「普通」でいいんじゃないか

          一体何を考えていることになるのだろう

           一体これは何をしていることになるのだろう、という感覚を抱く。  自分は「考えている」とこれまで何度も口にしてきたが、ふとそこで気に留まるのは、一体何について考えているのかということ以前に、自分が「考える」と言っているところのこの行為自体についてであって、果たして自分は何をしていることになっているのだろうと、若干のむなしさが過ぎ去る奇妙な感覚である。  こうして何かを書くということにしてみても、自分が既に知っている事以外は書くことはできない。自分が知らない事についてどうして

          一体何を考えていることになるのだろう

          『22世紀の民主主義』批評

          成田悠輔さん著『22世紀の民主主義』批評 『22世紀の民主主義』から考える光と闇   人のためになるものは、人によってつくられない方が良いのか。  “ひと”の性能をアップデートすることはできないのでこれまでのような人力ではなく、インターネットや監視カメラを駆動させて、人々のあらゆる言動から発せられる欲望や願望をデータとして集め・解析するコンピュータのプログラム(アルゴリズム)によって最適解を見つけて意思決定をする『無意識データ民主主義』という提言があります。  私たちが気

          『22世紀の民主主義』批評