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表現悪影響論を支持する書籍『フィクションが現実になるとき』の批判的検討

ゆっくりしていってね!!!!
私は東方Projectとは無関係かつ独立に存在する不思議なゆっくりよ!

さて。ちょっと前のお話になっちゃうけど、「広く表現の自由を守るオタク連合」さん、通称・新橋九段さんとレスバになったわ。
まあレスバ自体は、私もけっこう口汚い事を言っちゃったからおくとして、新橋さんからゲームに悪い影響があると指摘している本があると、親切にもご紹介いただいたわ。

なるほどね。お教えいただきありがとう!
対立する側の根拠も知っておく必要があるものね。これね!

著者はカレン・E・ディル-シャックルフォードさん。
彼女は、「表現に悪影響はある!」とする論文をむやみに……じゃない、熱心に出版し続けていることで有名なアンダーソンさんの研究室のご出身みたい。

あらあら、それは期待できそうね――では。

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ほら、買ったわよ?

カレンさんのことは、新橋さんの仰るとおり、私も存じ上げなかったのだわ。

ただ、アンダーソンさんの方は有名だし、さすがに知ってたわよ!
たしか2005年に、アメリカで表現規制に関わる州法を成立させるにあたって、特に主要な根拠資料(論文)を提供した研究者よね。そして表現規制の州法が実際に成立したのは、カリフォルニア州、ミシガン州、イリノイ州の3つ。

そんなアンダーソンさんの論文は、私も以下のものくらいは読んでいるわね。

【アンダーソンさんの手持ち論文リスト】

External Validity of "Trivial" Experiments: The Case of Laboratory Aggression(1997)
Video Games and Aggressive Thoughts, Feelings, and Behavior in the Laboratory and in Life(2000)
Effects of Violent Video Games on Aggressive Behavior, Aggressive Affect, Physiological Arousal, and Prosocial Behavior:  A Meta-Analytic Review of the Scientific Literature(2001)
・ An update on the effects of playing violent video games(2004)
Violent video game effects on aggression, empathy, and prosocial behavior in eastern and western countries: a meta-analytic review(2010)

※リンクを貼ったから、書式は簡略化させてもらったわ。

残念ながら、裁判所に提出されたアンダーソンさんの論文については、いずれも「あくまで相関関係を示したに過ぎず、因果関係は示せていない。科学的根拠不足」と判示されて、州法はぜんぶ撤廃されたけど。

要はそういう人の弟子ね――は、悪意のある紹介の仕方だけど、ぶっちゃけご紹介いただいた本、『フィクションが現実になるとき』の科学的議論の水準が低すぎて、これくらい言いたくなるのだわ。

『フィクションがフィクションに終わるとき』とでも改題すべきよ。

まあ、もったいぶらずに結論から言いましょう。この本のダメな所を列挙しておくわね。

【ポイント】
『フィクションが現実になるとき』のダメなところ


・表現について、「悪影響は乏しい」「(悪影響論者が指摘するほどには)影響が見られない」とする極めて多数出版されている論文をすべてガン無視し、350ページにもわたって、ひたすら自説に合う論文だけを紹介している。(完全にいいとこ取り。いわゆるチェリーピッキング。)

・上記の理由から、逆の結論を支持する論文群よりも、自分たちが支持する結論のほうが正しいとする根拠・理由もまったく提示されていない。(本書における仮想論敵は「表現にいっさいの悪影響がないと信じる人たち」であり、自分たちの仮説と対立する学術論文は取り上げていない。)

・アンダーソン論文に基づき成立したカリフォルニア州ゲーム規制法が、裁判で「違憲」とされた件について、著者は「科学的根拠の不備ではなく表現の自由が優先されただけ」と説明しているが、イリノイ州における同法がやはり「違憲」となった件についてはまさに「科学的根拠の不備」で却下されたことに言及していない。

・いつものことだが、性犯罪や暴力犯罪に関する現実の統計データ(の時系列推移)に関する考察がまるで無い。


性犯罪や暴力犯罪に関する統計データの時系列推移については、ごく一例を示すと、ポルノの流通量と強姦事件の発生率を比較した次の図があるわね。

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Ferguson and Hartley (2009)より

この図が掲載されている論文については、以前に私に素晴らしいご批判をくださったuncorrelatedさんが正確に書いてくださっているから、引用させて頂くわね。

Ferguson and Hartley (2009)の内容をざっと紹介すると次のようになる。米国では映画やビデオやネット配信などの新しいメディアが出てくる度に、保守派とフェミニストが結託してポルノ規制を求めてきており、何度も規制法案が施行され、何度も連邦最高裁で違憲判決が出ているが、現在も規制強化が試みられている。科学的な根拠は薄弱だ。心理学の実験や相関分析などで様々な研究が蓄積されているが、それらの結果に一貫性はなく、決定的な手法と言えるものもない。ポルノが賢者タイム効果(catharsis effect)で性的暴行を減らす可能性すらある。一方で、アメリカに限らず多くの先進国で、ポルノ利用の増加に反して性的暴行事件発生率は大きく低下している。これは社会構築説、フェミニスト理論、進化生物学による強姦の発生要因の説明すべてと整合的ではない。警察の取り締まり強化や、中絶や避妊の合法化におる人口動態も、性的暴行事件発生率低下を十分に説明しない。今や、ポルノが性的暴行を増やすと言う仮説を捨てるべきだ。

UNCORRELATED『快楽は一瞬で代償は高くつく? — 強姦と性的暴行へのポルノの影響:2022/1/12』(visited 2022/1/16)

もちろん、メディアの影響を論じる本が全て・必ず考察すべきだとは言わないけれど(主旨ではないかもしれないし)、事実関係については頭に入れておきたいわね。

それにしても、他の問題点も含め、こんな本、よく自信を持って出したわね……。
これだと、表現による影響についての科学的見解が、少なくとも学術的には論争をほとんど含んでいないかのように読者をミスリードしてしまうでしょう。

私はね、少しは期待していたのよ?

例えば、ミルトン・ダイアモンドや、C・J・ファーガソン、ローレンス・カトナー、シェリル・K・オルソン、エミリー・メラーといった研究者さんたちは、

「暴力的ないし性的な表現による影響ついて、一部の研究者(例:今回のカレンさんやその師匠のアンダーソンさんなど)が行った実験手法とその結果によっては、彼らが結論しているような影響の存在は支持されない。なぜなら……」

――と、反対意見を取り上げて、「なぜ自分たちの研究結果のほうが妥当か」「なぜ他の研究は妥当でないか」を論じているわ。新橋さんはきっとご存知よね? 心理学で博士号をお持ちだと伺っているのだわ。

【ちょいムズ! 読み飛ばし推奨コーナー】
・「表現による悪影響は、いかなる評価基準においても完全にゼロである。」は誰にも証明できないし、そもそも有り得ない話である。
・そうではなく、因果関係まで示せない実験結果・調査結果によって「因果関係がある」と主張することや、心理学実験で得られた結果を明確な根拠もなく現実世界の振る舞いに「スケールアップ」させる論理の飛躍を批判している。(心理学実験は因果関係をおおむね示せるが、現実世界でも同じだと論じる場合はその根拠が必要となる。)

最終的にどちらが正しいかはともかく、こうして比較して「こっちが正しい!」と言える根拠・理由を述べるのは、いわば最低限のマナーじゃないかしら?

いえ。マナーというのは適切ではないわね。
そもそも、ちゃんと比較論をやってくれないと、どっちが正しいのか読者には伝わらないじゃない。

普通、反対意見の研究者たちも、同じように比較に基づいて論じていると思うじゃない? それがその本だと予想したのだわ。
科学的な本って、「ここまでは大体分かっている。ここからは仮説がいくつかあり、決着を見ていない」という書き方をするでしょう。

結論としては、この本は違ったけど。

私としては、表現の影響に関する一般書籍なら、ハーバード大医学部が実施した大規模調査をまとめた、こちらの本を断然おすすめするわね!

こちらの本では、きちんとアンダーソンさんを始めとした「強い悪影響があるとする研究者」の論文をいくつも取り上げているし、そのうえで、それらがなぜ妥当でないと考えられるのかも当然、誠実に説明されているわ。
この一点だけでも――私が「自由戦士」的な思想の持ち主であるかどうかに関わらず――科学的議論の水準として絶対的に上位よ。

ちなみに、2つの本の"原著の"出版年を考えると、

2016年出版の『フィクションが現実になるとき』(参考文献リストを見るに2014年の論文までは記載がある)が、2008年出版の『ゲームと犯罪と子どもたち』の存在を無視してるのは、「奇妙」を通り越して「不正」のレベルだと感じるわ。

さて。

今回は、『フィクションが現実になるとき』『ゲームと犯罪と子どもたち』、および新橋さんのブログにある書評『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』などを題材にしつつ、

【表現による影響】とは?

をテーマとして述べていくわね!

それじゃあ――ゆっくりしていってね!


「悪影響」ってどこから? あなたは八つ当たりから

新橋さんは上記のブログ記事で、「心理学の常識は、ゲームに悪影響はある、ということです」と自信たっぷりに述べていらっしゃるけど、フツーに考えて悪影響っていったら程度問題よね。

彼が自由戦士と揶揄する人たちが言う「表現に悪影響はない」なんて、いわば誇張表現であって、まさか「どんな表現物に接しても、まったく感情を動かさず行動も変わらず、あたかも"無我の境地"めいた状態でいられる」と主張している訳ではないでしょう。

私だって、マリオカートをプレイしている時、ゴール手前で甲羅を3連発で食らって1位から10位まで転落したら、さすがにキレるし、もしかしたらコントローラーくらい投げるかもしれないわ。

その時、脈拍が速くなり、血圧が上昇し、また心理的には共感能力が落ちていると推察されるわ。(別にこんなの覚えなくていいけど、心理学系の界隈では「脱感作」という大げさな名称で知られる現象の一つ。)
じっさい、「うがー!」となっている最中に、誰かから「ねえねえ、部屋の掃除を手伝ってよ」と用事を頼まれた時、それを断ってしまう確率は、平常時に比べて有意に高まるくらいはあり得るでしょう。というよりも経験もある。ええ、認めましょう。

これが「マリオカートをプレイすることによる悪影響」と言えばその通り。

でもこれ、仕事で集中している時に電話がかかってきたり、スマホを落っことして画面にヒビを入れてしまったりした時でも起きる現象よね。それをいちいち「電話がかかってくることによる悪影響」「スマホを落とすことによる(心理的)悪影響」って言う?

普段はいちいち言われないような些細なストレス現象があえて声高に叫ばれる時、普通の人は「この人は、まず悪影響を有無のレベルで認めさせてから、表現を規制すべきだと言うつもりなんじゃないか……?」と政治的意図を疑うでしょう。

とりわけ、『フィクションが現実になるとき』のような、論文として出版されている数々の異論反論をひた隠しにし、心理学実験の結果を現実世界の挙動にあてはめる合理的根拠も乏しい粗雑な書籍を、押し付けがましく読まされた時は、疑心暗鬼になっても仕方ない。

私も細々とした説明をしてあげるのが面倒な時は、「(あなたが言うような)悪影響はない」の一言で済ませるわ。

もちろん、やや厳密に言い直せば、「あなたが行った実験結果では、あなたが言うとおりの悪影響が現実にも作用しているのだと実証されたとは言えない」「その研究では、相関関係は示せていても、因果関係までは示せていない」といった形になるでしょうね。

これを発言の表層だけ見て、

「あ~! 悪影響は"ない"って言った~! 必ずしもゼロではないことを誰しも否定できはしないのに~!!」

と嬉しそうに騒がれても……。

なんか……「がんばってね」って、感じよ……。

新橋さんはブログ記事で、以下のように「悪影響がないなんて、非現実的な妄想だ」という旨の主張をされているわよね。

 本書はメディアが人々に様々な影響を及ぼすという、当然のことを極めて紙幅を割いて書いています。
 著者によれば、メディアに悪影響がないと信じ込んでいる人々が共有している「神話」が存在します。

 それは、悪影響を「人を殺しまくる」と定義し、そうならなければ悪影響は一切ないという認識です。つまり、0から100までの悪影響のうち、90くらいまでの悪影響がなければそれ以下は自動的に0になるという、非現実的な妄想です。

 もちろん、実際にはそんなことはなく、例えば暴力的なゲームをやって人を殺さなかったとしても、ものにあたって壊すようなら明らかに悪影響です。ポルノを見てレイプしなくてもセクハラするようになれば悪影響でしょう。
新橋九段『【書評】フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』(visited 2022/1/16)

まさに『フィクションが現実になるとき』でカレンさんがやっている、仮想論敵の主張を驚異的に脆弱化してから叩く論法だから、内容紹介としては正しいわね。

そして「ものにあたって壊すようなら明らかに悪影響」なら本当にマリオカートでキレちゃった時程度でいいのね。マリオカート、CERO A(全年齢)だけど大丈夫?

――でも、そんな言葉の揚げ足取りをお互いにやっても仕方なくて。

問題は、結局のところ、ゾーニング等の自主規制も含めて「規制するほどの悪影響があるのか」「悪影響があるとして、憲法で規定された『表現の自由』を制約するほどか」であって、「悪影響はない」という言葉をめぐる言い争いは、議論ごっこに過ぎないわ。

まあTwitterレスバトルの世界だとありがちだし、私にも大いに身に覚えがあることだから、そう責められはしないけれど。(過去ツイート漁られたら、「お前もやったことあるじゃないか!」は確実に言われるわね。今後気をつけますとしか言いようがないわ。)


「巧みにたとえている」のではなく、信頼性のフリーライド

新橋さんは次のようにも述べているわ。

 もちろん、実際にはそんなことはなく、例えば暴力的なゲームをやって人を殺さなかったとしても、ものにあたって壊すようなら明らかに悪影響です。ポルノを見てレイプしなくてもセクハラするようになれば悪影響でしょう。

 この点について、著者はメディアを受容することを食品を摂取することに巧みに例えています。ハンバーガーは明らかに健康に悪い食べ物ですが、それを食べたことが直接の原因で死ぬ人はまずいません。しかし、だからと言って「ハンバーガーに悪影響があるなら、マクドナルドの前に死体の山ができていないのはおかしい!」というのは愚かです。

新橋九段『【書評】フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』(visited 2022/1/16)
※強調は引用者による。

確かに『フィクションが現実になるとき』では、食品の摂取にたとえていたわね。
それだけでなく、こうも述べていたわ。

実は、メディアにおける暴力が専門の著名な研究者[19]の中には、メディアでの暴力への接触と攻撃性の結びつきは、喫煙と肺癌の関係に相当すると指摘する人もいる。

カレン・E・ディル-シャックルフォード(著), 川端美樹(訳)『フィクションが現実になるとき』誠信書房(2019), p.37.
※[19] Bushman, B. J., & Anderson, C. A. (2001). Media violence and the American public. American Psychologist, 56, 477.
※強調は引用者による。

まあ「たとえ」として本質は食品の摂取と同じだから、これでもいいでしょう。
でも、実は『ゲームと犯罪と子どもたち』の方でも同じ文献を取り上げ、かなり紙幅を割いて批判しているのだわ。
ちなみにもう一度言うけど、『ゲームと犯罪と子どもたち』の方が8年も早く出版されてるからね?

8年も早く出版されてるからね?

その上で、ちょっと長くて細かいけれど、引用するわ。(だるかったら完全に全部読む必要はないわよ。「問題点」の最初の3つくらいで十分な気もするし。強調太字以外は読み飛ばすとかでもOK。)
以下の参考文献のうち[13]は、上の参考文献の[19]と同じよ。

 メディアの暴力と若者の攻撃性の関係と喫煙と肺ガンの関係のあいだには、いわゆる「示唆的類似」があるという研究者もいる[13]。詳細は後述するが、彼らは数々の異なる研究結果を統合するメタ分析を活用し、暴力的なメディアと暴力との関連性の強さを表す効果量が、喫煙と肺ガンの関連性と常にほぼ同じくらい大きいと結論した。
 私たちも示唆的類似の存在は認めるが、これらはメディアの暴力が攻撃性を増加させるという説を補強するものではなく、むしろ土台を揺るがしている。以下がその理由である。

・喫煙が一般的になる前、肺ガンはまれな病気だったが、現在ではがんによる一番の死亡原因となっている。一方、電子メディアが人気を集める以前から、攻撃的行為は珍しくはなかった。

・肺がん罹患率は喫煙率が上がると増加し、下がると減少する。これは人口全体だけでなく、男性、女性、富裕層、貧困層、東海岸、西海岸、中西部などの下位集団でも見られ、集団の定義にかかわらず、喫煙率が上がれば、肺がん罹患率も上がる。しかし、暴力的なゲームと未成年者による暴力犯罪などの現実世界の犯罪件数を比べた場合、このような関係は成り立たない。

・たばこの煙が肺がんの引き金になる生理学的メカニズムは、十分解明されている。しかし、メディアにおける暴力が現実世界の暴力につながる過程は、まだ推測の域を出ず、この理論は特別な場合にしかあてはまらない。

・喫煙と肺がんのあいだには、摂取量と摂取した物質が引き起こす反応の関係を示す用量反応関係が成り立っている。遺伝的要因や、アスベストにさらされるなどの環境的要因にも左右されるが、一般に喫煙量の多い人ほど、肺がんにかかる危険性が高い。しかし、暴力的なゲームにさらされるほど、子どもに大きな影響が及ぶのかは、まだはっきりしておらず、「暴力的ゲームにさらされる」といっても、プレイ時間の長さ、プレイ年数、ゲームの流血量など、計測対象はさまざまである。私たちが中学生にアンケート調査を行ったところ、実際に興味深い相関関係が見つかったので、これについては次の章で紹介する。

・肺がんは明確に定義された疾病であり、診断すれば肺がんであることが確認でき、診断方法や結果について、専門家たちの意見はかなりの場合一致する。ボストンでがん細胞を観察した病理学者は、バンコクやバルセロナでも同じ細胞を検査した病理学者と必ずいつも同じ診断を下す。ところが、研究室内の人工的な環境で実験を行う場合も、遊び場や教室にいる本物の子どもを調査する場合も、攻撃性や暴力行為を定義し、「診断」する方法は、専門家によってまったく異なる。

・喫煙と肺がんの関係は、いうまでもなく一方通行であり、両者の間には明確な方向性を持つ因果関係がある。肺がん患者、もしくは遺伝的に肺がんにかかりやすい傾向のある人々が、ほかの人よりもたばこを吸いたがることはない。一方、ほかの子よりも攻撃的な子は、暴力的なメディア番組やゲームを求めがちである。暴力的なゲームをしたり、暴力映画を見たりすることで、もともと攻撃的な子どもたちのなかに攻撃的衝動が芽生えたり、その引き金となったりすることはありえるが、暴力的メディアを盛んに利用しているのは、むしろすでに攻撃性がある証拠なのかもしれない。
……
(引用者注:更に3点が不備・欠陥として指摘されているが、長いため割愛する。)

※[13] 雑誌『American Psychologist』「Media violence and the American public: Scientific facts versus media misinformation」(2001年6月・7月号477~89ページ)B. Bushman, C. A. Anderson著
※太字強調および空行挿入は引用者による。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), pp. 87-89.

8年も前にこれだけ指摘されていたら、言い訳くらい考えておきなさいよ……。

特に重要な問題点を改めてまとめると、

・タバコと肺がんでは、因果関係の方向が「タバコ→肺がん」と分かっているが、暴力的メディアと暴力性(攻撃性)については双方向でもありうるし、「暴力的メディア→暴力」という明確な証明はなされていない。

・タバコの場合は、統計的手法だけでなく、生理学的な手法(顕微鏡で拡大したり、成分分析をかけたり……)によるメカニズムの知見も得られているが、暴力的メディアの影響に関してはそうではない。
(なお、主旨ではないため割愛するが、fMRIなどによる脳機能イメージング法の結果から意味のある結論を導くのは、様々な課題を抱えている。)

・「肺がん」の定義、診断基準はどこでも一致するが、「暴力的(攻撃的)」の定義、診断基準は研究者によって大きく異なる。(ちなみにこれはメタ分析したときに結論が真逆レベルでブレる原因の一つでもある。)

こんな感じかしら? さすがハーバード大医学部――って、ハーバード大でなくても医学部でなくても、「当たり前よね」ってレベルだけど。

かなり怪しいところのある表現による影響を、信頼性のある医学研究になぞらえて語るのは、「巧みなたとえ」というより、信頼性のタダ乗り(フリーライド)だと思うのだわ。


「置き論破」を無視する本

『フィクションが現実になるとき』と『ゲームと犯罪と子どもたち』を同時に読むととても面白くて、前者がこの手の「8年越しの置き論破」を食らいまくってるのよね。

具体的には、

テレビと攻撃性の長期的研究について
『ゲームと犯罪と子どもたち』:pp. 102-103.
『フィクションが現実になるとき』:pp. 146-149.

暴力的ゲームと非暴力的ゲームの影響に関する比較実験
『ゲームと犯罪と子どもたち』:p. 104.
『フィクションが現実になるとき』:pp. 152-153.

「ノイズブラスト」テストの妥当性について(上記の比較実験で採用されている手法の妥当性)
『ゲームと犯罪と子どもたち』:pp. 105-107.
『フィクションが現実になるとき』:p.151-152.

他にもいくつか(メタ分析論文の妥当性とか)あるんだけど、とりあえずこんなものかしら。

要は、『フィクションが現実になるとき』の第4章と、『ゲームと犯罪と子どもたち』の第3章を同時に読むと本当にめちゃくちゃ楽しいから強く推奨するわ。これこそメディア・リテラシーって感じ。

ちなみに、カレンさんもメディア・リテラシーの大切さを訴えているわ。

◆メディア・リテラシーのスキルを高めよう

 本書を読んだのであれば、あなたのメディア・リテラシーの能力はすでに高まっている。他にも役に立つ本やウェブサイト、映画がある。また自分で、友達とまたは子どもと一緒にできる活動、すなわちマスメディア摂取のコントロールやメディアがあなたに与える影響の理解を促進させ、あなたを助手席から運転席に移す多くの活動がある。テレビを見ているときには、常に疑問点を考えよう。「彼らはどのような考え方を私に押し付けようとしているのだろうか。この番組はどのような信念、価値観や考えを奨励しているのだろう。自分はどの点で賛同し、どの点で賛同しないのか」という疑問を持とう。

カレン・E・ディル-シャックルフォード(著), 川端美樹(訳)『フィクションが現実になるとき』誠信書房(2019), p.338-339.

ご高説、ゆっくりありがとう!
確かに「メディア・リテラシーの能力が高まった」わよ!


カレンさんは不都合から目をそらす

じゃあ、本文での指摘は最後の1つにするわね。
引用が多いとはいえ、ここまでで約1万字。読者さんの皆様もお疲れよね。

では、そんな疲れも吹っ飛ぶネタでいったん締めくくりましょう。

カレンさんは、ゲーム規制の州法が違憲判決が出た時のことを、次のように述懐しているわ。(カレンさんのお師匠のアンダーソンさんの論文が州法の成立根拠として使われていたのよ。)

 最高裁判所が最近、未成年にある種のビデオゲームを販売することを規制するカリフォルニアの法律について検討した。裁判所は、ビデオゲームは言論の自由によって保護されるので、それらを未成年に売ることは合憲であるとした。その結果、メディアの暴力は攻撃や反社会的な行動を引き起こさないという科学的な根拠を基に、その決定が行われたと信じる人も現れた。実際には、裁判所がビデオゲームの表現の自由は保護されるべきと判断を下したのは、憲法修正第一条によってであり、メディア暴力の研究成果を根拠としているわけではない。実のところ、多数意見について記述したスカリア裁判官は、科学的な研究論文など読んだことはないと明言している。

カレン・E・ディル-シャックルフォード(著), 川端美樹(訳)『フィクションが現実になるとき』誠信書房(2019), p.163.
※強調は引用者による。

へえ。カリフォルニア州のゲーム規制法の件ではそうだったの?

でもそれさあ、2005年のイリノイ州の同じゲーム規制法で示された違憲判決の件から目を逸してない?

この裁判では、研究者としてアンダーソンさんとクローネンバーガーさんが「ゲーム規制法を正当化できるくらいに科学的根拠はある!」と自分たちの論文をもとに主張し、それに対して、やはり研究者であるゴールドスタインさんとウィリアムズさん、加えてヌスバウムさんが「いやそれらは科学的妥当性に欠いている」と反論する形で争われたわ。

つまり、

アンダーソン&クローネンバーガー(被告側の擁護者)
vs.

ゴールドスタイン&ウィリアムズ&ヌスバウム(原告側の擁護者)

って対戦カードよ!

それを受けて、最終的にマシュー・F・ケネリー判事が下した結論を見てみましょう。
(孫引きになっちゃうけど、私の適当翻訳よりプロの翻訳のほうがいいでしょうから、『ゲームと犯罪と子どもたち』から引用するわね。)

 アンダーソン博士の証言と研究結果は、いずれも暴力的なゲームにさらされることと攻撃的思考および行動との強固な因果関係を立証してはいない。ゴールドスタイン博士とウィリアムズ博士が指摘したように、攻撃的な人は暴力的なゲームにひかれることは何よりも明白であり、当該分野の研究者たちは、この解釈を排除してはいない。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), p. 288.
※強調は書籍の記載に従った。

ケネリー判事さん、最初からかなりアクセル踏んでるわね……。

つまり、暴力的なゲームのせいで暴力的な人になるのではなく、暴力的な人が暴力的なゲームを好みやすいという逆因果の可能性が十分あり、それは「当該分野の研究者たち」にも支持されている話だってことね。

続きにいきましょう。


 仮に暴力的なゲームをすることで、攻撃的思考や行動が増すという仮定を認めたとしても、それが顕著であるという証拠はない。アンダーソン博士は、暴力的なゲームをすることで、攻撃的思考や行動に継続的な影響が及ぶ、つまりプレイヤーがゲームを終えてから相当な時間が経過したあとでも影響が持続するという見解を裏づける証拠を提示していない……。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), p. 289.
※強調は書籍の記載に従った。


「顕著であるという証拠はない」は、私がマリオカートの話で述べたように、程度問題であって、かつ、その程度がヤバイとは立証できてないという指摘ね。全くその通りなのだわ。
そして、長期的影響も裏付けなしと。


 最後に当法廷は、議事録上、イリノイ州議会が暴力的なゲームと攻撃的思考および行動の増加が無関係である、または否定的関係にあることを示す証拠を検証したことを示唆する記載がないことも勘案した。議事録には、ゴールドスタイン博士やウィリアムズ博士が引用した論文の記載が一切なく、暴力的なゲームと攻撃性の因果関係を発見した研究結果を批判するいかなるデータも含まれていない。これらが漏れていることから、議会は「実質的証拠」に基づく科学的文献から「合理的推論」を行ったという被告の主張はさらに説得力を失っている。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), p. 289.
※強調は書籍の記載に従った。


ケネリー判事は、イリノイ州議会が「ゲーム規制州法の成立にあたって都合の悪い結果を出した学術論文を取り上げていなかった」という「いいとこ取り」の問題をきっちり指摘していらっしゃるわね。
つまり、きちんと反対論文も取り上げて「いや私たちの見解の方が妥当性が高いのだ!」と論証しているならともかく、それをやってないのは「ずる」じゃない? 説得力下がるわねぇ、ということよ。

カレンさんの著書『フィクションが現実になるとき』もこの点は全く同じだから、「いいとこ取りをすればいい。都合の悪い結果は無視がいちばん!」というのは表現規制派の人たち全般の習性なのかしら?

さらに、ケネリー判事のお話は、根拠資料とされたfMRIによる脳機能イメージングに基づき、悪影響の存在を示せたと言う論文にも及ぶわ。


 当法廷はヌスバウム博士の証言には信頼性と説得力があり、クローネンバーガー博士の証言は説得力に欠けるものと認める。クローネンバーガー博士は当該研究に重要性を持たせようとしているが、ヌスバウム博士の証言どおり、この結論ではその主張を支持しきれないものと当法廷は判断した。暴力的なゲームをする未成年者は「行動の制御を司る前頭葉の活動が低下する」という、議会が発見した結論の合理性を証明する根拠を、被告は一切提示していない。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), pp. 289-290.
※強調は書籍の記載に従った。


それにしても、ケネリー判事さん、かなりボロクソに言うタイプね……。


 本件において、被告は必要となる証拠を提示にするにはほど遠い状況である。第一に、被告はゲームの暴力的内容が「差し迫った違法行為を扇動する、もしくは行わせるように仕向けている」証拠を提示しておらず、記録にある唯一の証拠は、ゲームは娯楽としてつくられているということだけである。第二に、彼らが主張する暴力的なゲームが未成年者に与える影響に関して被告が提出した証拠は、表現の自由の法的規制の基準となった判例、ブランデンバーグの基準の必要条件に当てはめ、暴力的なゲームには「差し迫った」暴力を生じさせる「蓋然性」があると証明するには不十分である……。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), p. 290.
※強調は書籍の記載に従った。

ええと……。


 本国において言論は保護されており、国家には、それを聞いたり見たりする人々の思考や態度に影響するという理由で、言論を禁ずる権威はない……。半世紀以上前にジャクソン判事が述べたように、「我々の社会のかけがえのない遺産は、各構成員が望んだとおり思考する制約のない法的権利である。思想統制は全体主義の専売特許であり、私たちは一切これを求めない。市民を錯誤に陥れないようにするのが政府の役割なのではなく、政府を錯誤に陥れないようにするのが市民の役割である」……。

ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー/シェリル・K・オルソン(共著), 鈴木南日子(訳)『ゲームと犯罪と子どもたち』インプレスジャパン(2009年), p. 291.
※強調は書籍の記載に従った。

いや言い過ぎじゃない!? そこまで言って大丈夫!?
アンダーソンさん、コレどんな気持ちで聞いてたの!?


あちらの国の判事さんは、なかなかスッゲェ性格してるわね……。

加えて豊かな学識と批判眼をお持ちだと推察されるわ。
うらやましい限りよ!(日本にスカウトできないかしら? 年収50億円くらい払ってもいいから。)

えーっと、なんだっけ。

……そうそう、思い出した。カレンさんの話をしていたのよね。
もういっぺん引用しなおすわ。

 最高裁判所が最近、未成年にある種のビデオゲームを販売することを規制するカリフォルニアの法律について検討した。裁判所は、ビデオゲームは言論の自由によって保護されるので、それらを未成年に売ることは合憲であるとした。その結果、メディアの暴力は攻撃や反社会的な行動を引き起こさないという科学的な根拠を基に、その決定が行われたと信じる人も現れた。実際には、裁判所がビデオゲームの表現の自由は保護されるべきと判断を下したのは、憲法修正第一条によってであり、メディア暴力の研究成果を根拠としているわけではない。実のところ、多数意見について記述したスカリア裁判官は、科学的な研究論文など読んだことはないと明言している。

カレン・E・ディル-シャックルフォード(著), 川端美樹(訳)『フィクションが現実になるとき』誠信書房(2019), p.163.
※強調は引用者による。

カリフォルニア州の件については、仮にそうだったとして、でもなんかアレじゃない? 2005年のイリノイ州の件でもう十分すぎるくらい問題点を指摘したから、大して変化もない案件で同じ指摘をやり直すのがめんどくさかったんじゃない? ――ま、これは適当な憶測だけど。

もちろん、裁判所の判決が、科学的見解の妥当性を決めるものとは考えないわ。ただ、指摘されている具体的内容に関しては、研究者としてあるべき誠実性に照らして、「回答する必要がある」と言うに十分な質でしょう。

ケネリー判事の判断が間違っている可能性はある。でも、そうならそうで、「こういう理由で間違っています」と述べるべきよ。ざっくり「無かったこと」にして、まるでずっと被害者だったかように記述するのは、"ミスリーディング"ではないの?

もしカレンさんが、「2005年の時点では確かに判事を説得しうるほどの科学的根拠に欠けていたかもしれない。しかし、心理学の世界も進歩している。新しく得られた知見によれば、当時の主張も科学的に正当化できるのだ」と考えるなら、その根拠と理屈を書籍に書いておくべきよ。書き漏らしだとしたら、漏らしすぎ。だって裁判自体が2005年の出来事でしょ。原著2016年出版で書けないってことはないのだわ。

なるほど、私は、こういう批判に使える知識がない状態で、本書『フィクションが現実になるとき』を読むのは、知性に著しい悪影響があることを認めるわ。信じたら恥をかくし、判断を間違う。

メディア・リテラシーが試されるのだわ!


――今回の記事は以上! 読んでくださってゆっくりありがとう!

あとは、いつものお礼メッセージだけの有料エリア――にしようと思ってたけど、今回はゆっくりしたオマケさんをご用意させて頂いたわ。

内容としては、制作舞台裏のお話や『フィクションが現実になるとき』が"置き論破"されている他の部分の紹介、及びそれに関する私見なんかが含まれているわ。

あ、別に読まなくても支障ないわよ(オマケの分、いつもよりお高いのだわ)。本書の批判に関しては、これだけ言っておけば十分でしょう。
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そして、ここから先は「オーバーキル」の領域……。
開け―――ゲート・オブ・バビロン!


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