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名前の由来

というハッシュタグを付けて記事を書こう というのがあったので、小生の名前について記しておく。

俳句なら俳号、茶道なら宗号・庵号、家名・門名は屋号、商いは商号、亡くなれば諡号 などなど、本名以外の名前を持つ機会は意外と多い。
戒名が一番周知のところだろう。

小生がこのブログを初めるに当たり、画家・文筆家が使う雅号を名乗ろうと思い、考えたのがこの「中内 東海坊 雨山」である。

当初は「東海坊雨山」としていた。
しかし、柳生宗家の流祖 上泉伊勢守信綱や柳生但馬守宗矩のように「東海坊」は間に入れようと考えており、名字を決め倦ねていた。

「淡路守」としなかったのは、そこまで奢ってはいないし、名乗るのも烏滸がましい。そこで地元の庵「東海坊」を入れることにした。地元の何かを名に入れたいという想いからである。

また近年の町内会館の建て替えで「コミュニティープラザ〇〇」等と名付けられたことから、既に「ほな8:00にコミュニティーに集合な」と建物や場所自体を「コミュニティー」と呼ぶようになっており、拘って「東海坊」と呼んでいるのは小生だけになっているからだ。
近い将来、「東海坊?それどこ?」となるのは目に見えている。だから何かの形で残しておきたいという想いがあった。名前や地名というものは残していきたいという小生の主張なのである。

「雨山」もまた生穂「雨乞山」から取っている。

名字を「中内」にしたのは、昔の村名である「中ノ内」から取っている。
昔の集落の集合である村の名前が「中ノ内村」であった。
なぜ「中ノ内」村と名付けられたのかについては諸説あり、小生もまだ書くことを躊躇っている段階なので別の機会にしたい。

このようにして「中内東海坊雨山」と名付けたのだが、先達というのはやはり穎敏である。
というのは、自ら考えて名付けた「雨山」には先代がいたのである。
今の所その方しか確認できないので、その方を「初代 雨山」とするならば、小生は「二代目 雨山」ということになる。

その先代は、小生と同じように生穂の歴史を語り継いでいた方だった。
既に他界されており正式な襲名とは言えないが、尊敬できる先代から「二代目 雨山」を戴くこととする。

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